『夜明けの詩 月夜の涙』
 

第七章 旅立ち

いつものように日は暮れた。
何事もなかったかのように、家々から炊事の煙が立ち上り始める。バルも、何事もなかったかのように、客人と自らの食事の支度を始めた。
いや、正確に言えば、何事もなかったかのように振る舞うしかなかった、というところだろうか。本当ならば知ってはならないところに足を踏み入れてしまった、いかにバルとは言え、その思いが無かったとは言い難い。
そして、いつになく重苦しい雰囲気の中で夕食は終わり、沈黙が支配する中、三々五々、彼らは床についた。

「…神聖王国か…」
ふと、暗闇の中でバルは呟いた。
今まで意識すらする事の無かった、自分の『故国』。皮肉なことに、それを身近に感じた今、既に存在はしていない。
扉を隔てた向こう側に、その最後の本流が、文字通り風前の灯火のように存在するのみである。
「…フェダル…あんたは、一体何がしたかったんだ…?」
返事が戻ってこないと解っている問いかけを、闇に向かって投げかけていた。

「結局、侯が亡くなられたのは、ほぼ間違いは無いんだね」
念を押すようなカルロスの顔には、寂しげな笑みが浮かんでいる。いたたまれなくなって視線を逸らしながらも、ホセはゆっくりと頷いた。
「確かな証拠は得られませんでしたが…、侯を知る方が皆…」
「もう良いよ。…何となく、解っていたことだし…」
そう言いながらカルロスは几帳面に折り畳まれた書状をホセに手渡した。怪訝そうにそれを受け取り、文字を目で追うホセの表情が、次第に熱を帯びていく。
「…これは…」
「今日、女侯から届いたんだ。…侯も、ご自分の運命を何となく理解していたんだろうね…」
読み終えたホセは、それを元通りに丁寧に畳むと、カルロスに恭しく手渡した。苦笑を浮かべながら受け取るカルロスを、ホセはどこか沈痛な面もちで見つめている。
「…どうした?」
「…今後、如何なさいます?」
カルロスの顔から笑みが消える。そう、国王の遺言が果たされないと決定した今、それが当面の問題だった。
カルロス4世がカルロスに残した遺言は、『真の王ロドルフォ=フェナシエラを探し、その旗の元でフェナシエラを再興せよ』。だが、『真の王』はもはやこの世にはいない。
「皆を見捨てるわけには、いかない」
そう、同盟関係にある隣国のプロイスヴェメには、『フェナシエラの象徴』の帰還を信じて必死の思いで戦火を逃れた同胞達がいるはずだ。カルロスが目指す目的を果たせなかったからと言ってここにとどまれば、その彼らの思いを踏みにじることになる。それだけは彼の性質が許さなかった。
「では…」
「ああ、もう大丈夫」
頷くカルロスに、迷いはもう無かった。

いつもと変わらず日は昇った。
朝靄の中、家々から煙が上り始める。
僅かに冷気を感じるようになった静かな朝、いつものように起き出したバルは、自分が知らないところで起きたことに気付き、思わず苦笑を浮かべていた。

日が高くなるに連れ、木漏れ日が地上に届くようになった。
もうどれくらい歩いただろうか。鬱蒼と生い茂った木々の中にいると、方向だけでなく時間の感覚も無くなってくるようだ。
「本当によろしかったのですか?」
振り向きざまに尋ねるホセに、カルロスは頷いた。
「これ以上、巻き込むわけにも行かないだろう?女侯がいてくださればまだしも、万一私たちと係わったことで…」
そう、カルロスの言葉に偽りはない。
いつ何時、イノサン5世直属の追っ手がかけられるか。そして彼らをかくまったアルタ村の人々がどのような仕打ちを受けるか。想像には難くない。
「こんな事ばかり考えているから、私は駄目なのかもしれないけれどね」
呟きながら、カルロスは立ち止まる。木々の間を吹き抜ける穏やかな風が、上気した頬を急速に冷やした。そして…。
「その割に、肝心なところが抜けてるんじゃないのか?」
前触れのない第三者の声に、二人は身構えた。だが、息を切らしながら後を追ってきた人物を視界に捕らえ、張りつめた空気は元に戻った。
「バル…どうして…?」
咎めるように言うカルロスに、バルは片目をつぶって見せた。
「地図に載ってる道だと、めぼしいのはこれしか無いから…。でも…」
これから何日もかけて山道を進むのにその格好では自殺行為だぞ、そう言いながらバルは持ち出してきた毛布を二人に向け放り投げた。
「この道だと、サヴォの国境すれすれを通ることになる。それよりは間道の尾根伝いを行った方が近道だし、換えって安全だと思う」
「けれど、バル…良いんですか?」
「あんた達が目的地に着かなきゃ悲しむ奴はたくさんいる。余所者の俺があそこからいなくなっても、誰も気にしない。そう言うわけさ」
言い終わるが早いが、バルは先頭に立って歩き始める。フェナシエラの主従は、当惑しながらも思わず笑みを浮かべあう。そしてふと見やったバルの背には、あの剣が申し訳なさそうに顔を覗かせていた。

短い夏は、終わろうとしていた。

第七章『旅立ち』完
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