『夜明けの詩 月夜の涙』
 

第十七章 『消えない傷跡』

いつものように彼女は格子のはまった窓から下界を眺めていた。母親や乳母など、近しい者とここに押し込められてからどの位経っただろうか。窓の外の風景は、四季の訪れを幾度と繰り返したが、平穏に行き過ぎていった。今日までは。
だが、今日は少し違っていた。遙かに見える城のてっぺんにはためく旗が、いつもより低い位置にある。窓という窓のカーテンは閉じられている。幼い彼女には、それで一体何が起こったのかを察することは出来なかった。少し視線を下の方に動かすと、いかめしい甲冑姿の何人かが、こちらに向かってくるのが見えた。一体何事なのだろう。考えるよりも早く、慌ただしく扉が開かれた。青ざめた表情でそこに立ちつくしていたのは、常に穏やかな乳母だった。
「…どうしたの?怖い顔をして」
「姫様…私と参りましょう。お后様はもう先に行かれました。私がご一緒しますので、何も怖いことはありません」
「…行くって…どこへ?」
だってここから出られないじゃない、そう言う前に、彼女は乳母の右手に光る物があるのに気が付いた。とっさに後ずさるその時、階下からけたたましい音が響いた。
がちゃがちゃという、甲冑の音が次第に近くなる。乳母は手に閃くナイフを掲げ、にじり寄ってくる。恐怖のあまり彼女は窓にすがりつく。そして…錆び付いた格子が彼女の体重に絶えかねて外れた。重力にあらがうことが出来ずに、彼女の身体は窓の外に放り出された。そして…。

「偶然…木の、枝。引っかかって。けれど、代わりに、左目が」
たどたどしいフェナシエラ語に、ホセは慌てて身を起こそうとした。だが脇腹に走る激痛に小さく悲鳴を上げる。その声に気が付いたバルが、立ち上がり苦笑いを浮かべながら意識を取り戻した猛将の顔をのぞき込んだ。
「気が付いたのか?無理すんなよ。すっぱり切られちまってて、まだふさがってないんだから」
「…バル…?ここは一体…」
「ヴェメの城。シシィがあんたをシュワルツワルトまで運んできて、そっからは俺とシシィと、金髪の兄さんの馬車呼んで、どうにか」
寝台の上で頭を巡らすと、バルの後ろに少し決まり悪そうにしているヴァルキューレの姿があった。
「シュワルツワルトに帰り着いた友人を…助けてくれたそうじゃないか…借りを返しただけだ」
その言葉に僅かにホセは笑みを浮かべる。バルの手を借り半身を起こしながら、いつもの穏やかな口調で言った。
「陛下…姉君にはお会いになったのですか?」
面白くなさそうに一つ頷いてからシシィはぷいと横を向いた。ひとしきり笑い合ってから、バルはふと、そんな彼女に向き直った。
「そういや、あんたは何か聞きたいことがあるって言ったじゃないか」
そう言えば。だんだん遠くなっていく意識の下で、そんなシシィの叫びを聞いたような気がする。僅かに首を傾げるホセに、シシィは低い声で言った。
「…私たちは…楽園の騎士団は、貴様らから大なり小なりの傷を負わされた。そう言ったのを覚えているか?」
ホセが頷くのを確認すると、彼女は一歩歩み寄り、そしてそれまでの思いの丈を一気にぶちまけるようにまくし立てた。
「殆どの奴らは、そう聞くとひたすら許しを請うか、ムキになって否定するかのどちらかだった。けれどお前はそのどちらでもなかった。何故?どうして謝りも否定もしない?!」
むき出しの感情を正面から受け止めてなお、ホセは穏やかな表情を崩しはしなかった。だが、なにやら心を決めたらしく、脇に立つバルに告げた。
「すみません…寝ている間に汗をかいたようで…申し訳ないですが…」
頷くとバルは次の間に姿を消す。完全にその姿が見えなくなってから、ホセは静かに切り出した。
「肯定も否定もしなかったのは、私が事実を知っているからです」
謎かけのような返答に大きく息をのむシシィに少し笑いかけてから、彼は身につけている夜着に手をかけた。
「見ていただければおわかりかと思いますが、私はフェナシエラ人ではありません。市井の移民の子孫が、ひょんなことからアラゴン候の屋敷に上ることになったんですが…」
言いながらホセは、夜着を脱ぎ捨てた。抜けるような白い肌が露わになる。だが、シシィの視線はある一点に釘付けになっていた。半ば青ざめながら、ようやくのことで彼女は口を開く。
「お前…その焼き印は…」
丁度、右の肩口のあたりだった。だいぶ色は薄くはなっているが、そこに残っていたのは明らかに『アラゴン候の私有物』であることを示す焼き印だった。自らの表情を隠すようにうつむきながらも、絞り出すように彼は言葉を継いだ。
「裕福な貴族が、縁もゆかりもない子どもを引き取る…そしてどうするか、貴女なら御存知でしょう。…屋敷に上がったその日、候は何も解らない私に手ずからこの印を押し…激痛で意識を失いかけた私を、無理矢理寝台に…」
そこで不意に言葉はとぎれた。突然頭上から降りかかった白い夜着を振り払うと、その視線の先には無表情に立ちつくすバルの姿があった。
「…どうでも良いけど、早く着ろよ。今度は熱出した、なんて言ったら面倒見切れないぜ…」

再び室内に静けさが戻った。シシィの姿はすでにない。
黙々と掛け布団をなおしていたバルは、呟くような声に、顔を上げた。
「…え?」
「…汚らわしいですか?」
天蓋の布を真っ直ぐに見つめたまま、固い声でホセは繰り返した。
「殿下の…パロマ候の筆頭騎士たる者としては、相応しくない…そう思いますか?」
思い沈黙が流れる。だが、いつもと変わらぬつまらなそうな表情のバルの口から出た言葉は、思いもよらない物だった。
「…俺が知ってるのは、今のあんただ。昔のあんたは関係ない」
「…バル…?」
「いいから早く休めよ。あんたが早く治らないと、俺じゃカルロスを護ることは出来ないんだぜ…」
苦笑を浮かべながらバルはホセの顔をのぞき込む。そして水差しの中身を変えてくる、と告げてから彼は外へと出ていった。残された側は、両の手で顔を覆い、必死に嗚咽を堪えていた…。

丁度部屋を出たところで、バルは自分を呼ぶ声に振り向く。そこにはパロマ候カルロスとその配下オルランド=デ・イリージャが立っていた。腹心の様態を気にするカルロスに、バルはいつもと変わらぬぶっきらぼうな口調で答えた。
「さっき意識が戻って…今、丁度シシィが帰ったとこで…もうしばらく休ませてやった方がいいと思う」
その言葉にカルロスはようやくほっとしたような笑みを浮かべる。だが、オルランドはいつになく難しげな顔をしている。それに気付き、いぶかしげな顔をするバルに、オルランドは笑いながら言った。
「いや…黒豹は良かったとして…君の顔色が、あまりにも悪いから…何かあったのかと思って」
痛いところをつかれてバルは言葉に窮する。が、視線を逸らしつつも、彼は口を開いた。
「…見えない傷を…消えない傷を見ちまったから…悪いことをしたと思って…」
何があったのか、そしてバルが何を知ったのか、それを察したのかカルロスの表情が僅かに曇る。が、それを意に介さず、オルランドは少々乱暴にバルの背中をたたいた。
「けど、君ならそれを和らげることが出来る。前にそうは言わなかったか?」
「難しいことを一般市民に押しつけるなよ。貴族様が聞いて呆れるぜ」
互いに顔を見合わせながら二人は思わず吹き出す。それにつられてカルロスの顔にも笑みが戻る。
…故国奪還前の、つかの間の休息だった。

短いプロイスヴェメの夏は、既に終わろうとしていた。

第十七章 『消えない傷跡』 完
夜明けの歌 月夜の涙 第二部 終
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