『夜明けの詩 月夜の涙』
 

第十八章 『女神の帰還』

磨き抜かれた白い石造りの廊下に、規則正しい足音が響く。その主は甲冑に身を固め、ぴしっと姿勢を正したまだ若い女性である。やや疲労の色は見受けられるが、その美しさを損なうことはなかった。いやむしろ、細身で鋭利な印象を与えるその顔を、引き立てているようでもあった。
その彼女は、一つの扉の前で足を止める。大きく息をつき、二度ノックする。返事はない。だが彼女は重いその扉を静かに押し開いた。
「…その様子だと、ヴァルキューレはミネルバの願いを聞き入れなかったようだな?」
その部屋の主は、彼女が室内に足を踏み入れるや否や、執務の手を止めることも、顔を上げることもせず、文字通り間髪を入れずにこう言った。その言葉に応じ、ベアトリス=デ・カプアは深々と頭を垂れた。そしてそのままの姿勢で、告げた。
「申し訳ございません…予想外の邪魔が入りました」
「女神の手を煩わせるとは、よほどの邪魔のようだな」
「…は…手負いの黒豹が、一頭…」
男の手が、一瞬止まる。ゆっくりと彼は顔を上げ、ベアトリスに鋭い視線を向ける。
「…この失敗は必ず…」
さらに深々と頭を下げるベアトリス。だが、その様子を頬杖をつき見つめる男の顔には、僅かに苦笑にも似た表情が浮かんでいた。
「仕方ないさ。ただでさえ戦場では手に余るのが、怪我を負っていたなら無理もない」
「…フェルナンド様…」
「気にするな。無駄足を踏ませてすまなかった。下がってゆっくり休むといい」
それ以上の弁明を遮ると、フェルナンド=デ・アラゴンはベアトリスに下がるよう促した。再び深々と一礼すると、彼女は恐縮したように部屋を後にする。
扉が重々しい音と同時に閉ざされると、フェルナンドは静かに立ち上がり、窓際に歩み寄る。どこを見るでもなく表を見つめるフェルナンドの目には、どこか安堵にも似た光が宿っていた。

『アラゴン候』は王室の分流で、武門に優れた家に与えられる称号である。今のアラゴン候はさかのぼれば先のカルロス三世の弟からの家柄である。
代々のアラゴン候は、フェナシエラ王の側近中の側近であると同時に、大将軍としてその軍事を一手に握る。『王の盾』という家紋が示すとおり、常に王の身近にあり守護する存在である。
他の貴族らから見えればまさに手の届かぬ雲の上の称号であるが、ある時フェルナンドは腹心ベアトリスと義弟のホセに、皮肉な笑みを浮かべながらこう言ったという。
…何のことはない。危険人物が勝手なことをしないよう、常に目の届くところへおいているだけのことさ…
慌てて二人はたしなめたが、フェルナンドはただその様子を笑いながら見つめているだけだった。
あまりにも強大な父親帆影にいると陰口をたたかれながらも、彼は残酷な真実を正面から見据えていたのではないだろうか。これまでの一部始終を目の当たりにしてきたベアトリスは、薄々そのことを理解しているつもりではあった。だが、ここまで来ても、その真意を測り知ることが出来ずにいた。
…一体、フェルナンド様は、どうして…いや、何のためにこんなことを…。
幾度となく脳裏をよぎった疑問が、再び頭をもたげる。磨き抜かれた廊下は、青ざめた彼女の顔を映しだしている。
「…今お戻りか?」
良く通る声に、彼女は慌てて顔を上げる。そこに立っていたのはサヴォ王の姉、アプル女候テレーズ=ド・サヴィナその人だった。
当代、甲冑姿が様になる女性は誰かと問われれば、間違いなくここにいる二人の名が上がるだろう。だが両者の決定的な違いは、女候は所謂貴婦人の立ち居振る舞いも板に付いていると言うことだ。劣等感にさいなまされながらベアトリスは慌てて壁際に退き、道をあけ頭を下げる。その内心を知ってか知らずか、女候は柔らかな笑みを返した。
「私とてサヴォ王室では邪魔者の身。改まらずともよい」
あまりの言いように、ベアトリスは目を丸くする。その様子に女候はさも楽しそうに笑った。
「それにしても、そなたも休む間のない様子、戦女神もさすがにお疲れなのでは?」
「いえ、決してそのような…主の命に従うことこそ、騎士の最大の喜びですゆえ…」
生真面目に返答するベアトリスにだが、女候の表情がふと曇る。
「フェルナンド殿は確かに聡明な方ぞ。されどその聡明さ故、自ら危険な道を選んでおられるように思えてならぬ…」
哀しげな表情から紡ぎ出される言葉が、ベアトリスに突き刺さる。
「…ひとえにあの方を制止できるのは、今はそなただけぞ。くれぐれも後悔せぬよう…」
再びベアトリスは深々と頭を垂れる。…似たような言葉を、最近誰かから聞かされた気がする…。
顔を上げたとき、女候の姿は既に小さくなっていた。

 

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