『夜明けの詩 月夜の涙』
 

第二十三章 『孤軍の将』

…お前は、そこまでして王家に…カルロス殿下に忠誠を誓うか…
致命傷を負い、荒くなる息の元、アラゴン候フェリペは剣を構えたままのフェルナンドに凄惨な笑みを向けた。
…これも宿業か…親子二代にわたり王家のためにその剣を王家の血で染めねばならぬとは…
どういう意味だ。言い返すフェルナンドの声は僅かに震えている。既に何も見えていないはずのフェリペの目を、彼は正視できずにいた。
…カルロス殿下は、陛下以上に『フェナシエラ』の名を大事と思っておられる…お前の計画通りにことが運んでも、殿下は玉座に着くことはあるまい…今のままでは…
だから、どいういうことだ。苛立ちながらもフェルナンドは再び問う。
…そう、儂はあの時、陛下の世の安定のため、ロドルフォ殿下を…だが、それだけでは…
バランスを失い、フェリペの身体は音を立てて崩れるように自ら作り出した真紅の池の中に倒れ込む。虫の息の声を聞き漏らすまいとして、フェルナンドは一歩足を踏み出した。
…フェルナンドよ…あの噂は、紛れもない事実…殿下は、御成婚後なかなかお子に恵まれなかった陛下に…気を使われた…ロドルフォ殿下が…

「…フェルナンド殿、如何された?」
不意に声をかけられ、回想の海から引き上げられたフェルナンドは身体ごと振り返った。果たしてそこには、扇を手にしたアプル女候テレーズ=ド・サヴィナの姿があった。
「陛下がお見えになったとのことぞ。皆、宴の間に戻り始めておる」
何ぞ、お加減でも悪いのか、と尋ねる女候に、これは大変失礼を、とフェルナンドは頭を下げる。だが、表情とその声の固さは隠しようもなかった。そんな若き武将の姿に、女候は扇をぱちんと鳴らす。
「…あの、何か…」
不審げに首を傾けるフェルナンドの様子に、女候は優雅に笑って見せた。
「いや、氷の如き御仁と女官らに専らの評判のフェルナンド殿にも、人のお心があったようなので、安心したまで。お気に障られたのなら申し訳ない」
「…気に障るなど滅相もない…確かに、端から見ればそのように思われても仕方のないことです故…」
逆に肩をすくめてみせるフェルナンドに、だが女候は真剣な面差しを投げかけていた。では、そなたの本心は如何、とでも言うように。内心を見透かされることを畏れたのだろうか、僅かにフェルナンドの表情が硬くなる。と、その時、戸口に立っていた侍従が、宴の間に戻るよう、両者に声をかけた。僅かに安堵の溜息をもらすフェルナンドに、女候は再び笑いかけた。
「されど陛下も暇なこと。一体何度戦勝の宴を催せば気が済むことやら」
その言葉に、フェルナンドは絶句する。面白くて仕方がない、と言うように女候は小さく笑い声を上げてから、立ちつくすフェルナンドをよそに宴の間の人波へと消えていった。

賓客としてサヴォ王室に迎えられてはいる物の、フェルナンド=デ・アラゴンの立場はきわめて微妙な物だった。
サヴォ王国建国以来の悲願であったフェナシエラ陥落と併合の最大の功労者。且つ宿敵フェナシエラの王族に連なる者。抱き込んで傀儡とするにはあまりに危険を孕むこの若者を、そのまま野に放つ訳にもいかず、だが始末するわけにも行かず、イノサン5世は些か持て余していた、と言うのが正直なところである。
熟考に熟慮を重ねた上で彼が導き出した結論は、王女カトリーヌと縁談を結ばせ、形だけでもサヴォ王室との繋がりを持たせよう、と言うことだっただが、その思惑を知ってか知らずかこの若者は正論を持ち出してやんわりと拒絶した。
…後ろ盾を持たぬ若者が…何を考えているのか全く解らぬ不気味な奴。それがイノサン5世の、フェルナンドに対して下された評価だった。
そんな至高の冠を頂く者の内心はいざ知らず、当のフェルナンドは、今日も華やかな宴の間に集う、着飾った人々の輪から離れた所で一人佇んでいた。
人脈作りのために顔を売りに走るわけでもなく、かといって、全くサヴォの権力を握る者達の勢力相関図に興味がないわけでもないらしく、その瞳は常に隙無く居並ぶ人々の動きを見つめているようでもあった。
「如何した?相変わらずお一人でおられるとは」
作り笑いを浮かべながらイノサン5世はフェルナンドに歩み寄る。それまで無機質な彫像のように身動き一つしなかった若者は、衆人環視の中で優雅に礼を返す。
「私は生まれながらの武人にて…このように華やかな場所にはあまり慣れておりませぬ故…」
非の打ち所のない、完璧なサヴォ語である。いや、言葉だけではない。口では武人であると謙遜しながらも、所作振る舞い全てにおいて、フェルナンドはサヴォ宮廷で通用する物を教わるまでもなく完全に身につけていた。貿易王国フェナシエラの王族であると言ってしまえばそれまでだが、イノサン5世はどこか空恐ろしささえ感じていた。だが、それをおくびにも出さず、彼はやや皮肉な作り笑いを貼り付かせたまま言った。
「不似合いか…よほど貴公はその言葉がお好きと見える。我が娘もその一言で振られたか」
そんな一見完璧な若者を少し困らせてやろう、と言う気持ちでも働いたのだろうか。底意地の悪いイノサン5世の言葉に、フェルナンドは深々と頭を垂れた。
「そのような…あまりにも過ぎ足るお話でしたので…」
「…正式に戴冠を終えた暁には、考えてくれるな?」
「名実ともに、姫君に相応しいと認められますれば、必ず」

…それまでの間は、せいぜい、我が世の春を楽しむがいいさ…
言葉と態度では年長者であるサヴォ王を立てつつも、フェルナンドは内心毒ついた。
彼の真の目的は、力を手にすることでも、国を手にすることでもない。そのような大それたことではなく、個人的な復讐と、個人的な忠誠を形にすること、それだけである。
そして、真意を話してみたところで、この権力という汚物にまみれたイノサン5世はそれを理解することは無いだろう。いや、理解しようとすらしないだろう。尤も、内に秘めたその想いを、彼は話す気は毛頭なかった。
高笑いを残して、イノサン5世は次の人波へと消えていく。ようやく頭を上げたフェルナンドの視界に入ってきたのは、意味ありげな表情を浮かべたアプル女候、その人であった。

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