『夜明けの詩 月夜の涙』
 

第二十六章 『決断』

開け放たれた窓から、人馬の作り出す独特のざわめき、そしてファンファーレに備えた軍楽隊の音あわせが風に乗って入ってくる。聞くでもなくそれらに耳を傾けていたフェルナンドであったが、ふと扉を叩く音に現実に引き戻された。
「フェルナンド様、皆、既にお集まりになっています。イノサン陛下がお出ましになる前に、お早く…」
「…良い茶番劇だな」
慌てふためいて駆け込んできた『戦女神』ベアトリスにちらりと視線を向けてから、フェルナンドは再び窓の外に目をやり、可笑しくて仕方がないとでも言うように声を立てて笑った。
「そのようなことをしている場合ではありません。お支度がお済みでしたらお早く…」
あくまでも忠実な臣下たる態度を崩そうとしないベアトリス。そんな彼女にフェルナンドはようやく笑いを納め、視線を動かすことなく低い声で呟いた。
「…本来ならば、私がその立場にいなければならなかったのだが、な」
「フェルナンド…様…?」
主が何を言おうとしているのか咄嗟に理解できず、ベアトリスは戸惑ったように言い返す。だが、思い当たることがあったのか、後ろ手に扉を静かに閉めながら僅かに青ざめた顔で恐る恐るとでも言うように切り出した。
「…御存知…だったのですか…?」
振り返るフェルナンドの顔には、自嘲に似た笑みが浮かんでいる。それが答え全てと言って良かった。
「アラゴン候は、怨んでも怨みきれない存在だろう。都合の悪いことは全て、貴女の義父上に…カプア卿に押しつけて、自分は傷つくことなく…」
「フェルナンド様…!」
「その汚れた血と家柄を、私は一身に背負ってしまった。それでもなお、私についてきてくれますか?…姉上」
「フェルナンド様、お止め下さい!!」
何時になく大きな、そして切羽詰まったベアトリスの声に、フェルナンドは驚いたように数度瞬く。そのフェルナンドの視線を、ベアトリスは穏やかな笑みさえ浮かべながら真正面から受け止めた。
「私は、歴代アラゴン候に仕えるカプアの名を受け継ぐ物です。それ以外の何者でもありません。願わくば最期の瞬間まで、貴方と共に有りたい、そう願っております」
あまりにも清々しいベアトリスの言葉に、フェルナンドは目を伏せた。
今彼女が口にした言葉は、紛れもない本心だろう。そして、自分についてきた多くの兵や騎士達も、多かれ少なかれ彼を信じ、同じような思いを抱いているだろう。
果たして、自分が行おうとしていることは、彼ら全ての思いを賭けてなお、なすべき物なのだろうか…。
迷いにも似た感情はこの戦に入ってから幾度となく彼を捉えた。しかし、そのたび彼はその感情を振り切ってただひたすら前へと進んできた。
けれど、今度は今までとは違う。ここで踏み出せばもう、あとへ戻ることはできない。事実を知らない…知らせていない彼らを、巻き込むことは、果たして…。
「…例えそれが、地の底に続く道であっても、です」
そんなフェルナンドの葛藤に答えるようなベアトリスの言葉が、心に痛い。けれど現に、彼は父親たる大将軍アラゴン候をその手に掛け、フェナシエラの主力の殆どと言って良いほどの軍勢を手中に収め長年の宿敵であるはずのサヴォと手を結んだ。そんな彼が、一体何を望んでいるのか、恐らく目の前にいるベアトリスすら知るはずもないだろう。いや、配下の物の中には、本気でフェルナンドの即位を望む者すらいる。
二重の意味で、彼らを裏切っているのではないか。
けれど、仕方のないことなのだ。あの方のためには…。
フェルナンドは再び窓の外に視線を投げかけた。相変わらずイノサン5世のラベナ出立の仰々しい式典の準備は慌ただしく続いている。
「自らの首を絞めようとしていることに、まだ気が付かぬようだな」
まるで本気で、フェナシエラ国民が自分を歓迎するとでも思っているのか、そう言うフェルナンドは、いつもの冷静さを取り戻しているかのように見え、ベアトリスの顔にやや安堵の表情が浮かぶ。
「ですが…大した自信ですね。この時期に全軍を上げてラベナに入城するとは…」
「だから茶番と言ったのさ」
皮肉な笑みを浮かべながらフェルナンドは嘯く。そう、イノサン5世は適当に煽てて下手に出てやればその気になる、いわば御しやすい存在であった。問題は…。
「あとは、女候からアプル通過の許可が頂けるかどうか、だな」
未だ不安が拭い去れぬように見つめるベアトリスに、心配するな、と声をかけてから、フェルナンドは肩からマントを羽織った。
「我々も出陣だ。…今度は少々、厳しい戦いになるかもしれないがな」
「…アプルを通過、するのですか?一体どこを…」
振り向きもせず歩み始めたフェルナンドを慌てて追いかけながら、ベアトリスは問う。長い回廊を進む間、フェルナンドは無言のまま真正面を見据えていたが、やがて中庭にさしかかったところで徐に口を開いた。
「フェナアプルを陥とす」
簡潔この上ない主の言葉に、ベアトリスは思わず足を止めた。フェナアプル…今は消息不明となっているカルロス4世の異母兄ロドルフォが治める地であり、そして何より、カルロスとホセがフェナシエラで最後にサヴォ軍と遭遇が確認されたところでもあった。サヴォ、そしてプロイスヴェメ両国境に近いとはいえ、戦略的に見てもさして価値があるようには見えない場所である。
フェナアプルの外れアルタ地方に何故。その知らせをはじめて聞いたとき、ベアトリスはそんなことを思った。だがその忘れかけていた地名を、再び彼女の主は口にした。一体、フェナアプルに何があるのだろうか。その謎は、程なく朧気ながら輪郭を表した。

既に高位高官らが揃い踏みする中を、外見上は悪びれることなくフェルナンドは進んでいく。定められた場所に腰を下ろす彼に、前列のカトリーヌはややはにかんだような視線を送っている。
やがてイノサン5世のフェナシエラ出立を祝す式典は仰々しく、滞りなく執り行われた。その間、全く表情を動かすことなく『偉大なる王』の背中を見つめていたフェルナンドは、式典が終わるや否や居並ぶ人々を振り払うかのように今日の主役の元へと歩み寄った。
「陛下…道中是非ともお気をつけて」
「おお、フェルナンド殿か。留守中、そなたには色々と…」
「そのことでございますが陛下、折り入ってお願いがございます」
訝しげに口を閉ざすイノサン5世に、フェルナンドは臆することなく言い放った。
「なにとぞ、出陣の許可を」
その声はさして大きな物ではなかった。だが、まだ見ぬ宝の山を目前に浮かれた気分に浸っていた国王の気持ちを冷やすのには充分な物であった。そして、事前に聞き及んでいたカトリーヌは僅かに青ざめた顔で、両者を見やっている。
「出陣とは…また急な…。何ぞ火急のことでも?」
ことの重大さに気付いたのか、アプル女候が鋭い視線をフェルナンドに投げかける。その視線を彼は真正面から受け止めた。
「は…陛下に仇なす者を、急遽討ち果たさなければなりませぬ」
「余に仇なす者だと?それは何者だ?」
だが、その問いかけには答えず、フェルナンドは女候を見据えたまま言った。
「つきましては我が配下がアプルを通過することをお許し頂きたいのです」
「な…」
ぱちん、と女候が手にしていた扇をならす。豪奢な装いが不似合いなほど落ち着きなく、至高の冠を頂く者は自らの額の汗を拭った。
「陛下の治世の安泰のためには、まずはフェナシエラ王室の残党を根絶やしにしなければなりませぬ。幸い、パロマ候はヴェメに逃れ、当分はこちらに手出しはできぬでしょう。されど、未だフェナシエラ領内に、王室の流れを汲む者がいれば、国民はかの者を担ぎ出す危険がございます。そうなる前に…」
「して…して、かの者とは一体…一体どこにおるのだ?アプルを通り抜けると言ったが…」
「我が目的地はフェナアプルにございます」
ぱちん。再び女候が扇を鳴らす音が響く。目に見えてイノサン5世の顔は、蒼白となった。
「ま…まさか…フェナアプル候が…」
「いいえ、私が申し上げているのは、ロドルフォ殿下ではございません」
ロドルフォ殿は、お前が殺したんだろう?お前がまだ即位する前、アラゴン候フェリペをそそのかして…。頭を垂れたまま、心中でフェルナンドは目の前にいるイノサン5世を罵った。その顔に浮かぶ薄笑いに気付く者は無論いない。
「私が申し上げているのは、陛下。…フェナシエラの嫡流にございます…」
そう、フェナアプル候ロドルフォの子として育てられた、紛れもないカルロス4世の嫡子。長らく子に恵まれなかったカルロス4世に、ロドルフォが自らの子を差し出すことを秘密裏に約束した後その懐妊が明らかとなり、抹殺されそうになった王子。彼をこの世から消さぬ限り、『唯一無二の血統』を重んじるカルロスは進んで王位につくことはない。下手をすれば、会ったこともないその『従弟』を探しだし、王位を譲ろうとさえするだろう。
一度剣を捧げ、忠誠を誓ったカルロスを王位に付ける。そのためには、いかなる汚名を着せられようとも…。
もはや彼に迷いはなかった。凍り付いたような海色の瞳で、フェルナンドはイノサン5世を見据える。そのあまりの威圧感に飲まれたのか、イノサン5世は僅かに後ずさりながら良きに計らえ、とようやく小声で言うのが精一杯だった。
「では、早速に出陣の準備に取りかかりたく思います」
再びフェルナンドは深々と頭を下げる。背後からのベアトリスの声も、もはや彼の耳には入ってはいなかった。

…鷲は再び、その翼を広げた。
自ら、傷つくために。

 

第3部 『決断〜金色の鷲』終

戻る
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送