『夜明けの詩 月夜の涙』
 

第三十章 『それぞれの苦悩』

寝苦しさを感じ天幕を出たベアトリスは、暗闇に佇む人影を見とがめ、慌ててその場で足を止める。こんな時でも肌身離さず剣を手にしていたことに感謝しつつ、気配を殺してその人影に近づく。
だが、雲が切れ、顔を出した月の明かりに照らし出されたその姿に安堵の溜息をつきながら姿勢を正した。
「…こんな時間に、どうしたんだ?」
「フェルナンド様こそ…このようなところで一体何をなさっているのですか?」
大木に体重を預けたまま振り返るフェルナンドの顔には、僅かに苦笑が浮かんでいる。ベアトリスと、ここにはいないもう一人の心を許した物以外には決して見せない表情だ。どんなに彼の周囲を取り巻く状況、そして環境が変わっても、この方自身を変えることはできない。何となくそんなことを思いながらベアトリスは常にそうするように、フェルナンドの後方に控えた。
「この道の先に、目的地がある」
思いの外静かなフェルナンドの声に、ベアトリスは頷き次の言葉を待つ。
「…敵として戦わなければならないのは、他ならぬ、フェナシエラのどこにでもいる善良な村人だ」
主の苦しい内心を察し、きゅっと、ベアトリスは両の手を握りしめる。
「己の私利私欲のために国民を巻き込むとは、上に立つ者としては失格だな」
「…フェルナンド様…」
何も迷うことはありません、ご自身の信じる道をお進みください。その言葉が喉まで出かかっているのに、音声にならない。目の前に佇む主が、心の底から望んでいるであろう、救いの言葉。と、同時に、今は尤も効きたくないであろう言葉。
フェルナンドの心の内の葛藤を察し、ベアトリスは目を閉じる。
「早く休むと良い。明日もまた長丁場だ」
言いながらフェルナンドは立ち上がり大きく伸びをする。
青白い月の光の下、そんな主の姿を、ベアトリスはまるで神々しい者であるかのように見つめていた。

イノサン5世のラベナ出立から遅れること2日。
フェナアプルへと出陣したフェルナンド軍の歩みは、亀のそれに等しいスピードだった。
理由は3つ。
一つ目はエルナシオンからフェナアプルへと続く道は大軍を率いるには細く険しい物であること。
そしてもう一つはアプル女候テレーズ=ド・サヴィナが途中までの同行を望み、イノサン5世の手前それを断ることが出来なかったと言うこと。
そして最後に、常日頃は自ら乗馬で移動するアプル女候がその地位に相応しい方法…すなわち輿を移動の手段に用いたと言うことである。
「何か不都合はございませんか?」
朝食の席に姿を見せた女候に、フェルナンドは礼を尽くして頭を下げる。正直なところ、今回の女候の同行には軍内部からかなりの反対があった。だがフェルナンドが二つ返事で了承し、常にこんな感じに女候に接しているので、不満は未消化のまま、半ば諦めた空気の中に溶けている。
…フェルナンド様は、迷っておられるのかもしれない…
ふと、ベアトリスの脳裏にそんな考えがよぎった。イノサン5世が『後見人』を自称しているものの、その立場はほぼ対等である。何よりフェルナンドが動かなければフェナシエラの玉座はこれ程までにサヴォには近づかなかったのだから。だから、フェルナンドが女候の同行を拒否しても、イノサン5世はそれをとやかく言うことはないだろう(尤も女候が某の嫌味をイノサン5世に投げかけるかもしれないが)。
だが、快く、と言ってもいいくらいにフェルナンドは女候の同行を了承した。足かせになるとはっきり解っているにも関わらず、輿を使うことに何一つ苦情を言おうとはしなかった。
戦場に着く時間を意図的に遅らせることで、自らの気持ちを整理しようとしているのかもしれない。
だが、その真偽を尋ねる権限は、ベアトリスにはなかった。彼女は出自はどうあれ、今現在はフェルナンドの駒の一つに過ぎないのだから。
ぱちん、と女候が扇をならす。その音に不意に現実に引き戻されたベアトリスは慌てて顔を上げた。フェルナンドと女候。両者の間に、何とも言えない空気が淀んでいるように見えた。その音を合図に、女候の侍女達は一礼をして本陣の天幕から退出していく。無言の人払いの合図だったのだろう。慌ててベアトリスもその後に続こうとしたとき、女候が初めて口を開いた。
「戦女神殿はこのままおられるがよい。…何よりベアトリス殿はフェルナンド殿と一心同体も同じ」
女候の目を正面から見ることが出来ず、ベアトリスは深々と頭を下げる。僅かに微笑んでいるようではあったが、その鋭い視線は見えるはずのない内心までも見透かすように思われた。そんな両者の姿に、フェルナンドは苦笑を浮かべる。
「これは…痛いところをつかれました…。まるでカプア卿がいなければ私が何もできないみたいではないですか」
一瞬流れた和やかな空気。取り付く島を失って、そこに立ちつくすベアトリス。それをうち破ったのは女候の方だった。
「…ここまで王都から離れれば、よもや飼い主にすり寄る犬もおらぬ故…ようやく本音で話が出来るという物…。時にフェルナンド殿…」
言葉を一端切り、女候は口元を広げた扇で隠したままフェルナンドを見つめる。この時ばかりは女候が何かを『畏れて』いるようにベアトリスには見えた。
「そなた、どこまで事実を御存知なのか?」
痛いほどの沈黙。一瞬目を伏せた後、フェルナンドがそれを破った。
「事実かどうかは分かりませんが…我が父と呼ばれた存在が犯した罪は、存じているつもりです…イノサン陛下と結び、何を犯したのか…そして、」
「その理由も…?」
斜めから見上げるような女候の視線を、フェルナンドは正面から受け止めた。息をするのも忘れ、ベアトリスはそこに立ちすくむ。自分が『知らない』フェルナンドの信じがたい行動の理由を、女候は知っている。そして自分も今知らされる…。望むと望まないと。
「大将軍は、彼なりの方法でフェナシエラの『名』を護ろうとしたのでしょう。…宿敵と結ぶという手法は些か短絡的だったかもしれませんが…」
フェナシエラの海の色の瞳が、鮮烈な光を放つ。ベアトリスが戦場以外でこんなフェルナンドを見たのは初めてだった。いや、事実ここは二人の戦場なのかもしれない。兵の替わりに持てる知識を総動員する、熾烈な戦場。
「…では、ご自身が父君と同じことをなさろうとしておられるのは、承知の上で…?」
「同じではありません」
ぱちん。再び扇の鳴る音がする。
「大将軍はサヴォの力を借りてカルロス4世陛下に忠節を誓われたロドルフォ殿を弑し奉った。私は自ら剣を捧げたパロマ候カルロス殿下のご即位をお助け申し上げるため、サヴォの力を利用して、何も知らぬフェナシエラの民を抹殺しようとしているだけにございます…」
冷酷とも言える笑みが、フェルナンドの唇の端に浮かぶ。
「…カルロス4世陛下の血を引く御子を…」

 

第三十章『それぞれの苦悩』 終

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