『夜明けの詩 月夜の涙』
 

第三十二章 『忠誠の形』

周囲に生い茂る草木は既に茶色に変わり、朝夕には夜露が凍り付く日もある。
足早に夏は過ぎ去り、『氷の女帝』ことマルガレーテは避暑の城プロイスハイムから南に位置するプロイスヴェメの帝都ヴェメへと戻っている。
本当ならば行きに通ってきた山脈越えの道を進みたいのだが、当の地図は自分が追っている張本人が持ち帰っており、幸いその道が解ったとしても下手をすれば雪が降り始めているかもしれない…そう考えた末に安全な街道を選ぶことになったのだが、一つ確実に言えることがある。これでは間に合わない。
フェルナンドが出立したエルナシオンから国境のアプルまで少なく見積もっても四日。こちらからどんなに急いでも一週間以上はかかる。たどり着いた時には最悪、すべてが終わっている可能性がある。
それだけは避けなければ。だが、もし間に合ったとしても自分はどうするのか?友人を助け共に戦うのか?それとも…。
もし友人と共に戦い村を守ったとしても、それから一体どうするのか?
自分の主は、果たして自分が戻るのを待っていてくれるだろうか。もし間に合わなかったら、自分は何のために急いでアルタの村へ…決戦の地へ向かっているのだろうか。
止めどない思いがぐるぐると脳裏を駆けめぐる。やがて思考が止まり、空白に落ちていく中、脇腹に鈍い痛いが走る。塞がりきっていなかったあの傷が、開いたのだろう。
皮の甲冑の継ぎ目から、深紅の粘っこい液体がにじみ出る。ほぼ同時に無理に走らせ続けていた馬が血を吐き、どうと倒れる。そのまま地面に叩きつけられたホセは起きあがろうとして激痛にうめき声を上げる。
冬を目前に、街道を通る商人も無く、換え馬を手にする術も、痛みを止める薬品を手にする術もない。
ここでこのまま果てるのか。主を守るために戦場で散るのではなく、こんな所で行き倒れ同然に…。
薄れゆく意識の中、誰かが自分の名前を呼んだような気がする。そう、あれは確か…。
「…シシィ…?」
そのつぶやきを最後に、彼の意識は完全に闇の中へ引きずり込まれていた。

「失礼ながらお伺いいたします」
生真面目に向き直るエドワルドに、オルランドはちらりと視線を向ける。自分より僅かに若い騎士の目には、僅かに涙が浮かんでいるようだった。
「自分も騎士の端くれ。剣を捧げた主のために忠義を尽くすのは理解できます。ですが何故、一市民のためにアラゴン卿は…」
「忠義を貫くだけが騎士じゃない。もちろんあいつの行動の根本には殿下への忠誠心もある。けれど、それよりもっと大きな物が動いたんだろう」
「それは一体…」
「信頼と友情さ」
言ってしまってから照れくさそうにオルランドは頭をかいた。解らない、と言うように首を傾げるエドワルドにオルランドは笑った。
「忠誠と信頼と友情に縛られて自由が無い人生なんてまっぴらだ。そう言って家を飛び出していった奴だっているんだぜ」
「それは…どなたです?」
「俺の本当の親父さ」
「…お父上?ルーベル伯のご子息では無いのですか?」
「ルーベル伯のじいさまは俺の祖父。父親は色々なしがらみが嫌になって騎士にならないで家を逃げ出した。そしてある日突然、金髪碧眼の妻と息子を連れて帰ってきたのさ」
信じられない、とでも言うように呆然とするエドワルドに、オルランドはさらに続けた。
「北方の海洋商人の娘と恋仲になったんだと。親父もそれなりに申し訳なく思っていたんだろう。じいさまに俺と商人による膨大な情報網を託して、親父はお袋を連れて出ていったんだとさ」
思いもよらぬパロマ候重臣の身の上話にエドワルドは黙り込む。だが、当の本人はさして気にしていないようだった。
「でもお陰で俺は殿下にお仕えできる。フェナシエラの誰にも負けない情報網で殿下のお役に立てる。…何も戦場での働きだけが忠誠の現れじゃない」
けれど、とオルランドは言葉を切り、エドワルドの目を真正面から見つめた。
「今のあいつを動かしているのは、忠誠や友情もそうだけれど、それ以上に疑問が大きいんじゃないかな。何よりフェルナンドの行動は、理解に苦しむ」
「それこそイリージャ卿の情報網には何も入ってこないのですか?」
「入っていない訳じゃない。だが、それが事実だとすると…」
薄い水色の瞳で空を見つめながら、オルランドは呟くように言った。
「聖なる玉座を護るべく動いているのは、俺達なのか、フェルナンド殿なのか解らなくなる。どちらにせよ、殿下があの御様態では…」
八方ふさがりだな。と苦笑するオルランドに、エドワルドはさらに食い下がる。
「けれど、忠誠こそが我々の最も大事とするところのはず…なのに…」
あんな平民のために、と言いたげなエドワルドに、オルランドは間髪を入れずに答える。けれど殿下が彼を呼んでいる、と。
「貴公に父祖伝来の宝剣を託した所を見ると、ここに戻るつもりは無いんだろうな。果たして黒豹だけで上手くいくかどうか…」
「…宝剣?これが宝剣なのですか?」
改めて剣を見つめるエドワルド。だがその表情が不意に強張った。
「イリージャ卿、私は大きな過ちを犯したやもしれません!」
言いながらエドワルドは剣をオルランドに差し出す。受け取ったオルランドはそれを一瞥して低く呟いた。
「金色の獅子…」
禿げかけた束の装飾はまがいもない王家の象徴の獅子。良く見ると、鞘にもフェナシエラの象徴である青色の石が埋め込まれている。
封印が施された謎の宝剣が再び抜かれる日は、間近に迫っていた。

不規則な揺れに、意識が次第にはっきりしてくる。
自分を取り囲む視線。そして誰かが立ち上がり人を呼んでいる気がする。額の汗を拭う冷たい布の感覚に、ホセは目を開け、慌てて起きあがろうとした。
「まだ止めた方が良い。もうしばらく休んでろ」
字むんを見下ろす蒼い隻眼に、聞き覚えのある声。すべての記憶が結びつきホセは小さくその女性の名を呼んだ。
「…シシィ…?」
「相変わらず無茶をする奴だな。今までそれであの情けない殿下を良く守れた物だ」
小さな笑い声があちらこちらから聞こえる。恐らく馬車の中なのだろう。しかし何故。
「さすがにあの金髪は抜け目無いな。後で会えたら良く礼を言っておくといい」
成る程、そう言う訳か。納得してホセは吐息をつく。彼の持っている情報網は余程の広さと密度とを併せ持っているらしい。当のシシィは御者に聞く。
「おい、後どの位かかる?」
「一日半ってとこですか?恐らく戦が始まるかどうかの頃合いかと」
そんなに自分は気を失っていたのか。色を失うホセに、シシィが再び笑う。
「安心しろ。お前が知らない近道くらいいくらでもある。…ぶっ倒れてたのはせいぜい数時間だ」
胸をなで下ろすホセをよそに、御者台から新たな声が聞こえてくる。
「シシィ、前方に掲げる旗は、楽園の旗で宜しいですか?」
僅かな沈黙の後、シシィの顔に悪戯っぽい笑みが浮かぶ。
「あれはできあがっているか?」
「はい、つい先程届きました」
「…どうせなら一泡ふかせてやろうじゃないか。そう思わないか?黒豹殿」
訳が分からず言葉を失うホセ。そんな彼を全く無視してシシィは言った。
「ならば両方だ。面白いことになるぞ」

第三十二章『忠誠の形』 終

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