『夜明けの詩 月夜の涙』
 

第三十四章 『崩壊の序曲』

城中は水を打ったかのように静かだった。
フェルナンドが率いていたフェナシエラの軍は一人残らずエルナシオンを去り、アプル女候の身辺を守っていた衛兵もいない。
フェナシエラ攻略のため出兵したサヴォの主力軍はラベナに未だ駐留し、親衛隊はイノサン五世と共にそのラベナへ赴くためエルナシオンを出立した。
今、城に残っているのは侍女と文官、そして自分を護るために残された城直属の近衛兵だけである。つまりは、今は自分が国王の代理人として、この国の権力を一身に背負っているのである。自室に籠もり、静けさの中で、サヴォ王女カトリーヌはその重荷に耐えていた。
…この重さに堪えて、更に適正な判断を下すことを、常に求められているのだ。こと、戦場で有れば重さは権力のみならず、自分に預けられた将兵の命の重さも加わる。その重さに常に晒されているのだ。伯母であるアプル女候も、そしてフェルナンド様も…。
あの時、最後にフェルナンドと二人で話をしたときのことがまざまざと思い出される。
…全てを決めるのは、貴女次第です…
あの時、フェルナンドははっきりと言った。今にして思えば、こうなることを事前に知っておられたのだろうか。それともこうなるよう意図的に仕向けたのだろうか。固く握られた拳に、涙がこぼれ落ちる。
今自分が行動を起こせば、難なく事は運ぶだろう。ここには誰もそれを咎められる者はいないのだから。
しかし、その行為はフェルナンドを、そして唯一の父親を裏切ることになる。だが今を逃せば思いを寄せるあの方をお救いすることは出来ない。あの方はこれまでと変わらず、邪魔者として行きながら死ぬことを強制される。
けれど…。美しい金髪の頭を抱えカトリーヌは左右に振る。その脳裏に浮かんだのは、何故か寂しげな笑みを浮かべこちらを見つめるフェルナンドの顔だった。貴女は自ら歩む道を、自分で選ぶ権利がある。微笑むフェルナンドはそう言っているようだった。
きっと顔を上げるカトリーヌの顔には、強い決意の色があった。彼女は立ち上がると文机に向かい、素早くペンを走らせた。書き上がったそれを数度読み返し、何度か破ろうととして踏みとどまり、丁寧にそれを折り畳むと封筒に納め、しっかりと百合の封蝋を押した。
「誰か?誰かおりませぬか?」
数度呼ぶと、すぐに数人の侍女が現れる。恐らくこの時の自分の顔色は、蒼白になっていただろう。気力だけで自らを支え、彼女はやや震える声で、だが、はっきりと言った。
「この文を、伯母上に届けなさい。くれぐれも内密に、且つ、至急に」
何時にないカトリーヌの固い声に、侍女の一人はかしこまってその封筒を受け取る。足早に走り去るその靴音を背景に、自分の前に控える侍女達に、カトリーヌは迷うことなく告げた。
「玉爾をここへ」
突然の言葉に、侍女達は戸惑ったように顔を見合わせる。何時にない鋭い表情でカトリーヌは再び言った。
「玉爾をここへ!サヴォ王家の名に於いて、不当に軟禁されておられるユークリド殿下の解放文書をしたためます!」
予想外の言葉に、侍女達はその命令を果たすべく走り去る。
後に残されたカトリーヌは、気力を使い果たしたのかその場に座り込んでいた。
「…父上…フェルナンド様…申し訳ございません…でも、わたくしは、ユークリド様を…」
低い嗚咽が、室内に響いた。

「伝令!エルナシオンより急使でございます!」
転がり込むようにアプル女候の隊列にやって来た使者によりもたらされたカトリーヌの書は、速やかに女候の手に渡った。怪訝な表情でそれを受け取った女候だったが、封を開け震える文字を目で追うに連れ、その表情は軟らかい笑みに変わっていく。
「ようやっと大人になられたか…あの可愛らしい姫君も…」
小さく呟いてから、女候は良く通る声で侍女に問うた。
「妾の武具は、全て整っておるな?」
「は…はい、お召し替えと共に…」
「急ぎそれを!」
「は、はい!」

数分後、淑女から見慣れた女性騎士となった女候は、愛馬にまたがり集結する配下の者に向かい言った。
「アプルの勇士達よ、これより我が軍は、王都エルナシオンへと向かう!」
ざわめく兵士達に女候は続けた。
「目的は帰還に非ず!簒奪者たるイノサンより王権を取り戻し、正統なる王位継承者たる先の陛下の王子ユークリド殿下をお助けするためである!」
兵士達のざわめきは更に大きくなる。それはとまどいと歓喜とに二分されているようでもあった。女候は抜剣し、ついに高らかに宣言した。
「これは我が独断に非ず!王の代理人たるカトリーヌ殿下よりのご要請である!イノサンを王都信じる者は我が前から去れ!真の王権を守らんとする者は我が後に続け!」
どよめきが歓声となり、やがてそれは鬨の声になった。
振り上げられる兵士の拳と、忠義を誓う彼らに、女候は満足げな笑みを浮かべ、頷いた。

第三十四章『崩壊の序曲』 終

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