『夜明けの詩 月夜の涙』
 

第三十五章 『戦闘開始』

笛を吹くような高い音が放たれた矢と共に森の中に響く。
それと同時に堰を切ったかのように完全に統率された騎士団が雪崩れ込んでくる。その最前列に掲げられているのはアラゴン侯子、フェルナンドの旗。即ちフェナシエラの海色の十字と、王冠と盾と剣。そしてフェルナンド個人を示す金色の鷲。
文字通り鷲が獲物を狩るような鋭さで、彼の軍は山間に貼り付くちっぽけな村、アルタに向けて森の中を駆け抜ける。その道には何も障害となる物が無いにも関わらず、先頭の一人が前触れもなく突然落馬した。
後方に続く者達の足は、何事かと、僅かに突入の速度が鈍る。そうするうちにも二人、三人と、やはり何の前触れもなく落馬する。良く見るとその首や身体には、僅かな甲冑の継ぎ目を突いて矢が突き刺さっている。
「気を付けろ!この木の上の何処かに、に敵が潜んでいるぞ。盾を…」
剣を手にしたベアトリスが叫ぶ。一瞬、突入が止まった。そのタイミングを計るかのように、木々の間から鬨の声が上がる。
不揃いの防具を身に纏い、これまた様々な武器を手にした人々が飛び出してきた。完全に不意をつかれ、一瞬馬脚が乱れる。
「ひるむな!所詮烏合の衆だ!進め!」
鋭い戦女神の声に討たれたかのように、軍団は陣形を立て直す。そして襲いかかってくる村人に僅かに躊躇った後、ベアトリスは己の剣を振り下ろした。赤い飛沫が視界を染める。元々は国の民の断末魔の叫びに、流石の彼女も思わず顔を背けた。既に覚悟を決めたつもりではあったが、いざ現実を目の当たりにすると、決意が揺らぐ。だが、全ては剣を捧げた主の…フェルナンドの、そして何より彼が信じるあの方の為…。
次々に自分の周囲でも血煙が上がる。何かが違う。狂っている。それは理解できるのだが、何かが歩みを止めることを許さない。
返り血を浴びながら、ベアトリスは素早く自分を取り巻く木々に視線を巡らす。一刻も早く、パロマ候カルロスが玉座につく妨げとなる王子を、手中に収めなければ。そうすれば無駄に何の縁もゆかりもない人命が失われずに済む。
その瞬間、彼女の脇を矢が通り過ぎる。いや、正確に言えばすんでの所で避けたのだ。慌ててベアトリスはそれが飛んできた方向に目を向ける。
木々の葉が生い茂る中、それに紛れるように組み上げられた物見の櫓。そこに弓を構える人影が見える。淡い色合いの髪は、紛れもなくフェナシエラ人のそれであり…。
「そこか!」
叫ぶと同時に再び矢が彼女をかすめる。ベアトリスの頬に一筋、赤い物が浮き出る。戦女神は脇に付き従う従者から長槍を受け取り、狙いを定めてその方向に投げつけた。
その間にも、ばたばたと彼女の周りでは敵や味方が倒れていく。早く…早くこの地獄から逃れたい。あの方のご心痛を取り除きたい。果たして、あの槍はあたったのか…。

「意外と手間取っているな…」
山の上に置かれた本陣から戦場を見下ろしながら、フェルナンドは呟いた。だが、地の利は相手にあるのだから、当然と言えば当然だ。何よりゲリラ戦を仕掛けられれば、小回りの利かない騎馬隊は不利になる。
徐にフェルナンドは剣を取る。脇に控える参謀の表情が強張った。
「い…如何なさいました?」
「出る。馬を…」
「なりません!この様な戦とも呼べぬ物に、御自らご出馬なさるなど…」
「責任は、俺自身がとるべきだろう」
言いかけたフェルナンドは、山の斜面の一点に視線を奪われた。そこに存在を主張していたのは、伝え聞く戦乙女…ヴァルキューレの旗。そして、もう一つ…。

死亡者が増えていく。
「…で、フェダルは?」
辛うじて戻ってくる者達の言葉は全て同じである。未だご無事、と。だが防御陣の崩壊は時間の問題である。長老は騎士の顔で呟いた。
「…御覚悟は、宜しいか?」
その問いかけに、一同は頷く。では、と各々が武器を手にしたとき、悲鳴のような絶叫が表から聞こえてきた。
「街道から…街道から軍団が入ってきます!」
色を失う長老は、慌てて外へ飛び出すその視線の先に旗めいている物は…。

かすかに村の方に人だかりが見える。まさか国内の諸侯の隊にも村人は手を回していたのか、との考えがベアトリスの脳裏をよぎった。何故ならその旗の色は、紛れもなくフェナシエラの海の色をしているのだから。だが、それが近づき、描かれた紋章がはっきりするに連れ、彼女は目を疑った。
その旗は、彼女が剣を捧げたアラゴン侯旗。王冠と盾と剣。だが、残る最後の個人を示す紋様は、フェルナンドの金色の鷲ではなくて…。
「黒豹旗…御舎弟殿が!!」
信じられない。第一、あれ程の手傷を負って遙か彼方のヴェメからこんなに早く来られるはずがない。
「こけ脅しだ!踏みとどまれ!!」
だが、『アラゴンの黒豹』の恐ろしさを尤も知る者達が、その命令を実行できるはずがない。ベアトリスは思わず唇を噛んだ。

「狼煙を上げろ。一端退かせる」
一言言うと、フェルナンドは陣幕へと下がっていった。慌てて参謀は走り出す。

…泥沼の戦いは、一応の結末を迎えようとしていた。

第三十五章『戦闘開始』 終

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