『夜明けの詩 月夜の涙』
 

第三十七章 『誰のために』

損害は、予想以上だった。
慣れぬ山間地での戦闘。しかも地の利は相手にあり、彼らが常に行っている平原での一騎打ちを主としたそれではなく、何時現れるともしれない敵に逐次対応する…ゲリラ戦に近い物だった。
加えて、本来ならば同胞である、そして全くの素人が闇雲に剣や槍を振り回して突入してくるその様に、己の武器を降ろすことを躊躇った者がいたのも確かである。
何より、ベアトリスがその一人であり、皮肉にもあの『黒豹旗』の突然の乱入による混乱と撤退命令にほっとした、というのが本音だった。けれど、『戦』を指揮する者としては失格である。
青ざめた顔で戻ってきた彼女を、だがフェルナンドは労いの言葉で迎えた。
「…辛い戦をさせてしまったな…申し訳なく思う。取りあえず皆の武装をとき、一端休ませろ」
「しかし…!しかしすぐに奴らを叩くなりしておかねば、取り返しの付かないことになります!どうか…」
きっと顔を上げるベアトリスに、フェルナンドは笑った。
「…長丁場になる。二度とエルナシオン…いや、ラベナにも戻れないかもしれない。我々はすでに、かごの中に追い込まれた状態だからな」
出来るだけ消耗は避けたい。そう言うフェルナンドに噛みついたのは、無能な参謀だった。
「何を仰いますか!ここは一度アプルまで戻り、装備を調えるなり…」
「恐らく今頃は、国境に女候の軍が展開しているだろう。どちらに進むにも一戦は免れない」
さらりと、フェルナンドは言う。そのあまりのさりげなさにベアトリスでさえ事の重大さを理解するのに僅かな時間を要した。もちろん参謀は言うに及ばない。
「これまでは、我々がフェナシエラの本流であり、サヴォの国王と同盟を結んで…大儀は我々にあった。だが、サヴォの大儀はあくまであのイノサンが主張しているだけのことだ。そもそもあの御仁は嫡男ではないから、玉座に付く正統な理由は無いのだからな」
ここまで説明してやっているのに、まだ解らないのか、というような皮肉を含んだ笑みがフェルナンドの顔に浮かんでいる。
そう。サヴォの王位は、イノサン五世が自分の兄であるフランソワ三世を力で廃し、病弱なその子ユークリド王子を保護という名の軟禁状態に置くことによって無理矢理手に入れた者である。
それ自体は、フェナシエラ以外の国では別段珍しい事ではない。むしろそう言うことが起こらないフェナシエラこそが希な存在であり、だからこそ『神聖王国』などというご大層な異名を与えられているのだ。
けれど今まで沈黙を守っていた先王の腹心や、あのアプル女候が何故今になって。そう問いかけるようにベアトリスはフェルナンドを見つめる。ようやくその段になって、流石の参謀も何が起きつつあるのか理解したようだった。
「しかし…何を根拠に女候殿がイノサン陛下に歯向かうような事を…動くと仰られるのです?」
「今エルナシオンにいる、玉爾に触れることが許される王の代理人は、カトリーヌ殿下のみだ。殿下は元々ユークリド殿の許嫁…。それ以上口に出すのは野暮以外の何物でもない」
幸い、王女を止めることが出来る国王以外の唯一の存在である女候はアプルにあり、元々イノサンの即位をあまり快く思っておられないようだからな。そう言いながらフェルナンドは再び笑う。
「しかし…カトリーヌ殿下は、イノサン陛下が正式にその婚約を破棄し、フェルナンド様へと…」
「口約束で人の心が動かせるとでも思っているのか?」
人の心を動かすことが出来るのは信頼と恐怖、そして人徳。
殊、イノサン5世はその中では尤も脆い『恐怖』によって、簒奪した。事が起きればどちらに転ぶかは当然といえば当然だろう。
それに、カトリーヌに己の信ずるように…ユークリド殿下を救え、と言うことを焚き付けたのは自分だからな、とフェルナンドは心中で呟く。あの美しく無垢な姫君は、その繊細な外見とは裏腹に芯の強さを持っている。不幸にも父親であるイノサン5世は、そのことを知らなかった。
その時、フェルナンドの言葉を裏付けるように、後方に置いていた斥候が転がるように本陣へと駆け込んできた。何事かと注視する三者の前で、彼は悲鳴のような声で事実を告げた。
「アプルの国境が封鎖されました!女候殿はほぼ国境防備の一部隊を残し、全軍を率いてエルナシオンに向かっておられます!」
だが、フェルナンドの表情は変わらなかった。全てが彼の予想通りに動いているのだから。
後は…。
「今日は取りあえず攻撃を中止する。単発的な夜襲に備え警備は怠るな」
言い残すと、フェルナンドは自らの陣幕の中へと消えた。

「…そんな怪我で何処へ行くつもりだ?」
暗闇の中、出来る限り気配を消して裏口から表へ出たホセは、呆れたような声に足を止めた。星明かりの中、美しいヴァルキューレがそこにいる。
「…以前、お忍びで街へ出られた殿下を追って、フェルナンド様と城下に行くことがありました。その時、互いを見失ったとき、落ち合う場所を決めていて…どの街でも中央広場と水場はある場所が変わらないから…と」
「で、敵の総大将が、わざわざお前を見舞いにそこに来ているとでも言うのか?」
山の中にも自分の配下を伏せてあるから不可能だし、そんな曖昧な昔の約束が何になる、と言うような視線をシシィは向けてくる。だが、ホセは首を横に振る。
「確信はありません。…ただ…万一、ということもあるので…それに…」
あの方が変わられていないのならば、自分の旗印を見ればもしかして、というホセに、シシィは笑った。
「肩を貸そう。いくら何でもその傷で水場まで行くのは無謀だ。…中央には仲間が展開してるからな。来るとしたらたぶんそっちだろう」
言いながらシシィはホセの左腕を取り、自らの方に回す。所々に篝火が焚かれ、次第に闇に目が慣れてくるといつもの街並みは何処か寂しげに凍り付いているように見えた。
この街角のそこここに、確実に人々の生活が根付いていた。ほんの、ついさっきまで。けれど今となっては平和な日常は消えて無くなり、山間の小さな街は即席の砦となりつつあった。本来の姿を知るホセにとっては、この上なく耐え難いことだった。しかもその原因を作ったのは…。
「次の角を、左で間違いないんだな?」
そんな思考を遮る、シシィの歯切れのいい声が石畳に響く。一番山間に近い…水を引き込むのに相当苦労したであろう高台の水場。闇に紛れてならもしかして。そんなかすかな期待…いや、願望を抱いて、ホセは頷いた。半ば諦めたように付き合うシシィの顔が、だが水場に続く真っ直ぐな道に差し掛かったとき急に凍り付いた。
そこには、闇に紛れた人影があった。すっぽりとマントを身に纏い気配を消して。正面からぶつかれば勝てる自身はない。この人と互角に戦えるのは、今自分に身を預けている人物が万全の体調でいるときくらいだろう。シシィは正直に思った。
「…フェルナンド様…」
耳元で聞こえる掠れたホセの声に、シシィは思わず両者を見比べる。しかし、仮にも楽園の騎士が防衛線を貼っているにもかかわらず、敵の総大将の侵入を許してしまうとは。思わず唇を噛むシシィに、暗闇に佇む人は、ゆっくりと振り向き、そして笑った。
「…やはりな。主戦力は傭兵隊か。…お前が先頭に立つなら後先を考えず真っ先に斬り込んで来るはずだからな。旗だけとは妙だと思っていたが…」
その声は、かつて共にラベナでカルロスに使えていた頃と全く変わらぬ物だった。違ってしまったのは両者のおかれた立場…。
「お前の言いたいことは解っている。だが、こうしなければ殿下は玉座に付くことは出来ない…先王陛下とはまた違った意味でフェナシエラの呪縛に取り付かれていた殿下は、玉座に付くことはしない」
「…あの噂ですか…殿下はカルロス3世陛下のお子ではなく、自ら身を引かれたロドルフォ殿下の…」
「陛下はご自身ではなく、ロドルフォ殿こそが至高の冠に相応しいと思っておられた。だからこそ、そのお子を実子として引き取られた。だが、当の殿下は、陛下の実子こそが玉座を継ぐべきだと…」
『神聖王国』の呪いか…。全くの部外者であるはずのシシィも、悪寒を感じられずにはいられなかった。一歩間違えれば彼女も似た境遇にあったのだから。
「…全ては、殿下の御為に汚名を全て被られると仰るのですか?それではあまりにも…」
「あいにくと、アラゴンの血は腐りきっている。曲がった忠誠心からイノサンと計り、ロドルフォ殿下を手にかけられた。その上国交という名の建前で姉上をカプア卿に押しつけ…おまけに自らの欲望を満足させるために、これだ」
言いながらフェルナンドは何かを空中に投げた。注意深く近寄り、拾い上げた金色の小さな容器を手にしたシシィは、一瞥しただけでフェルナンドを強く睨み付けた。
「使ったのは俺じゃないさ。公明正大で文武両道に優れた偉大なる『父上』だ」
訳も分からずシシィからそれを手渡されたホセは、蓋を開けると同時に嘔吐感を感じて口許を抑えた。この匂いには覚えがある。あの豪奢な牢獄で常に焚かれていた、甘く苦い香り…。
「巧妙な媚薬さ。嗅がされ続けると正気を失う」
「何故…ならば何故、こんな…殿下がお心を痛めるようなことを…」
「決まっているだろう。陛下の真の嫡子を葬り去り、殿下を何の心配もなく玉座にお迎えするためだ。ついでに腐りきったアラゴンの血を入れ替えるためさ」

第三十七章『誰のために』 終

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