『夜明けの詩 月夜の涙』
 

第三十八章 『血の呪縛』

三人の間に、言葉はなかった。石で作られた水路の上を、水が流れ落ちる音だけが響く。
「…アラゴンの血は、腐っている。既に役目を終えた者が何時までも表舞台に立っているのは醜い者だ。だから、俺が、その淀みを消し去る」
その方がこの国の…カルロス殿下のためだ、と、フェルナンドは言う。
確かに、そうなのかもしれない。
アラゴンの名は、玉座につけなかった王族が叛意を持たぬように国王の側に置いておく為の物だと、かつてこの人は言ったことがある。強大な力が中枢に向けられぬよう鈴をつけているような物だと。
「そもそも、大将軍には、母上との婚約が決まる前に懇意にしていた女性がいた。それを…子までなしていながら『プロイスヴェメとの同盟』の為だけに、捨てたような人だ。そんな人間が…人一人護れなかった人間が、国の大事を背負っていたんだからな。安物の悲劇以上の何物でもない。全てはカプア卿の己を省みない忠誠心があったからだ」
「…では…ベアトリス様は、師匠様のご令嬢では…」
言葉を発するたび、ホセの脇腹の傷の紅い染みはその面積を増していく。これ以上、起きあがっているのは危険だ。そうシシィは判断したが、当人が首を縦に振らない。
「さっきも言ったとおり、俺の…腹違いの姉上だ。市井の…チヌ系の人が母親だったらしい。だから大将軍はお前を拾ってきたんだろう。失った人間の面影を見いだして…」
迷惑な話だな、とフェルナンドは自虐的に笑った。
何処までが本心で、どこからが演技なのか。長年身近にいたホセだったが、それを理解できるほど今の彼は衰弱していた。不思議な光彩を放つその瞳も、いつもの力を失っている。
「ご託はいい。だからといって、自分の家の落とし前をつけるために、今まで何人の人間が死んでいると思っているんだ?そっちの方が余程…」
「腐っている、と仰りたいのでしょう、セシリア殿下。それは重々承知の上です」
捨てたはずの名で呼ばれたシシィは激高してフェルナンドに殴りかかるのではないか、とでも思わせるほどに鋭く睨み付ける。辛うじてそれを堪えたのは、彼女に手負い黒豹が、身を委ねているからだった。
「安心しろ。フェナシエラとアラゴンの汚点は、俺が全てあの世へ持っていく。後はお前が大将軍として殿下を…新たなる陛下にお仕えすればいい」
それで過去の遺物はすっかり姿を消す。良いながら笑うフェルナンドに、震える声でホセは言った。
「では…今貴方に命を預けている方々は…ベアトリス様達は、どうしろと仰るのですか?確かに神聖王国は既にその本来の形を失っているのかもしれません。歪んだ『血の呪縛』に捕らわれているのでしょう。ですが、それを払拭するためとは言っても、その犠牲は…」
「…確かに、お前の言う言は、正しいのかもしれない。俺がやろうとしていることはこの上もなく馬鹿馬鹿しいことなのかもしれない…。だがこうしなければ、俺は殿下に己の忠誠を示すことは出来なかった」
僅かに視線を逸らしながらフェルナンドは答えた。両者のやりとりを見つめていたシシィは、この時初めてフェルナンドに人の『感情』を感じた。それは『躊躇い』。
何かがおかしい。何かが歪んでいる。
そう知りつつも、声を上げることが出来なかった歴代の重臣や王族達の思いを、フェルナンドは全て押し流そうというのだ。己の命をもって。けれど…。
「残念ながら、貴方の願いを聞き入れることは出来ません」
唐突に、ホセが切り出した。こちらを見つめるフェルナンドが僅かに目を細めたようだった。それを理解してか、ホセはやや語気を荒げて繰り返した。
「貴方の願いを聞き入れることは、出来ないんです!」
「…どう言うことだ?」
まさか、と言いかけるフェルナンドに、ホセは力無く首を左右に振った。
「今…殿下は生死の境を、彷徨っておられます…。いや、もしかしたら、もう…」
「どう言うことだ?!」
繰り返すフェルナンドに、ホセはその顔を正面から見つめながら言った。
「プロイスヴェメに逃れる途中、殿下は矢傷を負われました。バルが、手当をしてくれましたが…」
「…バル…?」
その名前に、フェルナンドの表情はやや強張った。だが、ホセは、肝心なことをなかなか切り出そうとはしない。その思い切りの無さに苛立ちを感じながら、シシィは怒鳴りつけるように言った。
「遅効性の毒だ!口では散々良いことを言っていながら、実際にやっていることはどうだ?あの人の良いお坊ちゃんを躊躇いもなく最も残酷な方法で殺そうとしたのは、あんたの部下じゃないのか?!」
激高するシシィを、ホセは慌てて押さえ込もうとするがそれだけの力は、最早彼には残っていなかった。半ばそのホセを引きずるように、シシィは大きく一歩、フェルナンドに向けて近寄った。それこそ胸ぐらをつかまんくらいの勢いだった。
「あの権力者にしておくには勿体ない王子様は、玉座など見ていなかった。ただフェナシエラの…玉座を心の支えとする人間達のことを誰よりも考えていた!そして、あんたを…あんたを信じていたのに…」
シシィの隻眼から、涙がこぼれ落ちていた。最早自分に身を預けているホセは心中には無かった。ホセもろとも石畳に膝をつき、激しく首を横に振る。
「フェナシエラの直属がやったんじゃない、と言いたいんだろ?一緒のことだ!あんたが手引きしたサヴォの兵が、射ったんだ。あんたが…!」
「ならば、一人残されたフェナシエラの嫡流が玉座に付くため、力を尽くすだけだ」
冷たい声だった。ホセは未だ泣きじゃくっているシシィと、身動きだにしない義兄の姿を代わる代わる見つめていた。
「もし殿下がロドルフォ殿下のお子を、と願うのであれば、俺はそのまま逆賊として死ぬ。未だ殿下がその存在を知らず、俺にそれを託すというならば、おめでたいイノサンを葬るだけだ」
まったく感情のない声だった。その冷たい声で、俺はフェナシエラの呪いを断ち切るだけだ、と言い残し踵を返す。
その姿を無言で見つめている両者に、フェルナンドは僅かに振り向き言った。
「…お前も隅には置けないな。宮廷内では武芸以外に興味を示さないでいたのが…」
それが傍らにいるシシィをさしていることを、薄れ行く意識の中ホセは理解した。慌てて弁明しようとする彼の視界はだが、次第に暗くなる。
自分を呼ぶシシィの声が遠くなっていく中、去りゆくフェルナンドの顔は、昔と変わらぬ穏やかな笑みを浮かべているように、ホセには思えた。

第三十八章『血の呪縛』 終

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