『夜明けの詩 月夜の涙』
 

第四十章 『宿命』

突然投げかけられた、今までまったく耳にしたことのない名前に、周囲を取り囲む人々の視線は訳も分からず呼び戻された一市民に向けられた。
「…どうして…俺の本当の名前を…俺は一度も…
重苦しい空気の中、そう呼ばれた張本人は寝台の上に横たわるフェナシエラ『最後の嫡流』に向かい、驚きながらもやっとの事で口にする。
そう、初めてアルタ近くの森で出会ったとき、彼は主従に向かいただ『バル』と名乗った。そして事の成り行きでこのプロイスヴェメにやって来たときもまた、主従は先にたどり着いた人々にそのように紹介し、短くも簡潔なその名前で呼ばれていた。
しかし、この白く明るい死の床で、カルロスは自らの恩人を『バルトロメオ』と呼んだ。知るはずもない一市民が嫌う長ったらしい本名で。一番驚いていたのは、居並ぶ重臣達ではなく、名を呼ばれた本人だったろう。
それきり、言葉なく立ちつくすバルに、カルロスは常と変わらぬ優しく穏やかな微笑みを浮かべて見せた。が、その僅かな動作も、確実にカルロスの生気を奪って行くらしい。荒い息の下でカルロスは、申し訳なさそうに部屋の片隅にいるエドワルドを呼ぶように視線を向けた。
父であるプロイスハイム侯に伴われ近寄ってきたエドワルドからは、別れ際のあの尊大さを感じることはできなかった。いや、それどころか伏し目がちにある物を恭しく差し出した。
「どうぞ、お受け取りください。自分にこれを持つ資格はございません」
自分に向けて差し出された剣と、それまでの虚勢を失いしかられた子どものようにしゅんとしているエドワルド、そして再び寝台に横たわるカルロスに視線を巡らせてから、バルはようやく戸惑ったように言った。
「資格って…俺は一介の田舎者の村人だから、それ相応の人に持って貰おうと思って…」
「貴方は、ただの村人ではない。それを御存知の筈でしょう?」
穏やかなプロイスハイム侯ゲオルグの言葉に反論することができず、バルはうなだれるばかりだった。追い打ちをかけるように、カルロスが消え入りそうな声で告げた。
「フェナシエラの…立太子の時…ある誓いをたてるんだ…王家伝来の、宝剣に…。己の大切な物…を、護る以外の目的…では…決してそれを…抜かない、と…」
バルの顔から、目に見えて血の気が失せた。
『大切な物を護るとき以外は抜くな』。
それは顔も知らない父親が腹心の部下に託した『遺言』の内容そのままだったからだ。
最早、口を開くのも苦しげなカルロスに替わり、ルーベル伯がバルに向かって言った。
「とにかく、その剣を受け取られよ。そして、よくよく見てみると良い」
その言葉に促され、気が進まないながらも改めて剣を受け取り、バルは初めてそれを注意深く見つめた。けれど、どう見てもそれはただの古ぼけた剣にしかバルには見えなかった。
「…気がつかなんだか?所々に王家の色と紋章が残っているじゃろう?」
その言葉に、バルは初めて気が付いた。僅かに鞘に残っている海の青をした瑠璃の破片と、束に象られた雄々しい獅子に。
「先王陛下におかれては長らくお子に恵まれなかった。それを憂慮されたロドルフォ殿下が、ご自身のお子を後嗣に、と申し出られて…。だが皮肉にもその直後、王妃様はご懐妊された。元々フェナシエラの玉座にはロドルフォ殿下こそ相応しいと考えられておられた陛下は、そのお子を次の王位に付けるため、御自らの手でご実子を…」
「私は…陛下の実子ではない…。ロドルフォ殿下の息子…なんだ…。でも、私は…陛下と違って…聖なる玉座には…自分ではなくて…陛下のお子こそが…」
荒い息の下、ルーベル伯の言葉を受け継ぎ途切れ途切れに言うカルロスに、そしてその場を埋めるフェナシエラの重臣達にバルは殆ど泣きそうになりながら言った。
「知らない…!俺は確かに、バルトロメオなんて舌を噛みそうなご大層な名前だけど…生まれも育ちも山奥の…」
「本当に…そう、言い切れる…の…かな?」
苦しいにも関わらず優しげな微笑を失わないカルロスと、バルはまともに目を合わせることができなかった。久しぶりに手にした剣は、その重さ以上にバルの上にのしかかって来た。
その時、カルロスは震える手で枕元に置かれていた封書を取り、バルに向けて差し出した。躊躇いながらもバルがそれを受け取ると、カルロスは告げた。アルタでお世話になっているとき、女候から戴いたものだ、と。
それを聞き、慌てて返そうとするバルに、ルーベル伯は首を横に振り中を見るように促した。仕方無しにそれを開くと、中には二枚の便箋が入っている。
「一枚目は…女候ご自身が知る限りのことを…書いてくださった…物で…、ホセにも…見せてる。もう…一枚が…ロドルフォ殿下が…」
その後の言葉は、バルのお耳には入っていなかった。恐る恐るそれを取り出して食い入るようにバルは二通の手紙を食い入るように見つめた。
最初の一枚は、カルロスの言うように達筆な女候の文字がフェナシエラとサヴォの間で交わされた血生臭い過去の事件を淡々と述べている。
当時サヴォの一貴族の位に甘んじていたイノサンが、アラゴン侯フェリペと共にロドルフォを抹殺した、と言う事実を。それだけでも今まで自分が生きてきた世界とは余りにもかけ離れていた。事態を理解しかねて目眩を感じその場に倒れそうになるバルを、背後にいたオルランドが慌てて支えた。
「そっちが…君宛の…殿下…私の…本当の…父…から…の…」
途切れそうな意識を、カルロスは必至に繋いでいるようだった。全てを…聖なる玉座と言われるフェナシエラ王家の事実を、その正統なる継承者たるバルに全て伝えるまでは目を閉じることはできない。そんなすさまじい思念すら感じさせた。その怨念にも似た強い意志に急かされるように、バルはもう一枚を注意深く取り出した。茶色く変色してしまったそれは、細心の注意を払わなければ粉々になりそうなほど劣化していた。
そこに残されていたのは、書いたその人の穏やかな人柄を感じさせる優しげな文字だった。文面を目で追うバルの表情が、次第に真剣みを帯びてくる。
繰り返し繰り返し、バル…バルトロメオに対して、王位から遠ざけてしまったことを謝罪する言葉と、この豊かとは言えないが穏やかなときが流れるアルタの村で、願わくば静かに暮らせるように祈る、と記されている。そして、もし万が一、フェナシエラがサヴォの攻撃を受け、『正統なる継承者』が助けを求めて訪れた時には、一家臣として自分の替わりに尽力して欲しい、と。
しかし、これだけの証拠を突きつけられてもバルはまだ何かの間違いだと信じたかった。偶然が重なっているだけだ。それも悪い方向に。そう言おうとしたとき、ルーベル伯が重々しく告げた。
「バルトロメオ殿、貴殿の額には刀傷があるだろう?」
思わずバルは、自らの額に巻いている布に手をかける。生まれたとき…物心が付いた頃から刻まれていた身に覚えのない傷跡。常に布で覆い隠しているため、誰にも知られているはずのない傷。
青ざめるバルに、ルーベル伯は更に続けた。
「それこそが、貴殿の証。先王陛下が貴殿を手にかけようとされたとき刻まれた傷だ」
「…そん…な…俺は…」
けれど、最早事態は偶然の域を超えているのは明らかだった。
全ては必然だったのだ。プロイスヴェメを目指すはずだったカルロスが、わざわざ遠回りをしてまであえて国境のアルタまでやって来たのも、一介の村人であるバルを引き留めようとしたことも…。
「…本当に…申し訳…無いと…思って…る。何も…関係…無いはずの…君を…、巻き…込んで…でも…」
その瞬間、カルロスは今まで以上に穏やかで優しげな微笑みを浮かべていた。
「…君に…会えて…よかった…、…君で…よか…」
一同は、一斉にカルロスを省みる。
だが、その続きを聞くことは、ついにできなかった…。

第四十章『宿命』 終

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