『夜明けの歌 月夜の涙』第二部ダウンロード版
いい加減にしろ、との声も聞こえてきそうですが、万一著作権なる物が発生するとします
と、それらはすべてひろいそらに帰属するのではないかと思われます。
なので、無断での引用、転載、改編、改良(をいをい)はしないでください。
よろしくお願いいたします。
なお、加筆修正を行いますので、今後発行される(予定の)冊子とは若干の違いが生じま
すので、
よろしくお願いいたします。

破章『終末の始まり』
そして、終戦と共に雨はやんだ。
高台から見下ろすラヴェナの街には、まだ所々に、戦闘の名残である黒い煙が立ち上って
いる。
あの時突如としてこの街を蹂躙したサヴォ兵の姿はもはやどこにもない。つい先ほど、フ
ェナシエラ国民が夢に見た、ラヴェナ奪還の方が、届いたばかりだった。
「…漸く、終わりましたね」
ホセは、自分の前にたつ新たな王に話しかける。彼は僅かに苦笑を浮かべながら省みた。
「どうだか…。まだ、俺が認められたと言う訳じゃない…。みんな、カルロスが帰ってく
るのを、信じて疑っていないんだ。それを…」
「こんな所にいたのか。姿が見えないからとっくにやられたかと思ったぞ」
沈痛な彼の独白は、第三者の言葉によって遮られた。現れたのは、細身の肢体を飾り気の
ない甲冑で覆った、一人の女性だった。
「そっちこそ…とっくの昔に戻ったのかと思った。まだこんな所に残っていたのか?シシ
ィ」
シシィと呼ばれた女性は、僅かに笑みを浮かべながら歩み寄る。そして同じく高台から城
下を眺めやりながら言った。
「私の居場所は、私が決める。そう言わなかったか?」
そう言うと、シシィは顔反面を覆い隠していた長い前髪を煩げに掻き上げた。左目の上に
残る傷跡が露わになる。知っているとはいえ、元々が端整な顔立ちのためそのあまりの痛々
しさのため、二人は言葉を失った。
「そうそう、マルガレーテ陛下への使いはもう出しておいた。じきにお前の即位を認証す
る使者が着くだろう」
それを全く気にすることなく、シシィは肝心なことを口にした。大国の一つに数えられる
プロイスヴェメ王の承認を取り付ければ、それに異議を唱えるような命知らずの国も無い
だろう。だが、この知らせに当の本人はあまり浮かない顔だった。
「どうした?何か不服なのか?」
「いや…俺の即位よりも先に…あいつを…」
彼はホセとシシィ、両者の顔を、見やりながら言った。
「カルロスをここに、返してやりたい」
「…バル…」
思わず言葉に詰まるホセの肩を、シシィは軽く叩いた。
「なんて顔してる?それもさっきの使いと一緒にヴェメに送った」
私がそんな人でなしに見えるか?そう言い笑うシシィに、漸くバルの顔に笑みが戻る。
やがて、遙か彼方から、光が射す。
新たなる夜明けが、訪れた。

第八章 再会
周囲を埋め尽くす木々はその高さが次第に身長より低くなる。そしてついに草ばかりが生
い茂る山頂の尾根道に辿り着いた。冷たい風が、上気した頬を冷やす。
「…どうした?気分でも悪いのか?」
急に足を止めたカルロスを心配し、先を行くバルが足を止め省みる。カルロスの視線は、
ある一点を見つめていた。
「いや…ずいぶん遠くへ来たんだ、と思って…」
言いながらもカルロスは動こうとはしない。相変わらず視点は一点に固定されたままだ。
バルもそちらを見てみるが、目を凝らしてみても、遙か彼方に町並みらしき物が見えるだ
けである。
「あちらは、パロマの方角ですね」
最後尾から来ていたホセが振り向きながら静かに言う。二三度瞬くバルに、カルロスは頷
いて見せた。
「いつも窓から眺めているだけの山頂にいるわけだから…何だか少し、おかしな気がする」
そんな物かな、と呟きながらバルは肩の荷を背負い直した。担がれた剣が、がちゃりと高
い音を立てる。
「背負っていないで、腰に付けたらどうです?邪魔でしょう」
歩み寄るホセに、バルはひらひらと手を振って見せた。その顔には僅かに苦笑いが浮かん
でいる。
「まさか。俺は騎士でも何でもないし。置きっぱなしにするわけにもいかないから持って
きただけだし」
言いながらバルは剣を降ろす。鞘や柄の装飾は禿げ、一見みすぼらしい剣だが、そこに納
まっている刀身はかなりの物だろう。思わず姿勢を正すホセに、バルは突然吹き出した。
「そんなに改まるなよ…騎士様は剣なんて見慣れてるんだろう?」
茶化すバルに、言葉に詰まるホセ。そんな二人の様子に、カルロスは珍しく声を立てて笑
った。普段見せることのない一面に、両者は思わず顔を見合わせる。
「ごめん…でも、その剣は確かにすごい物だと思うよ。何だか、すごい威圧感を感じる」
おそらくお父上はすごい騎士だったんだね、そう言うカルロスの言葉に、バルは今一度剣
をしげしげと眺めやる。だが、やがて興味を失ったかのように担ぎ直すと、言った。
「ここじゃ身を隠す物も何もないし…あそこの森に入ったら一息つくか?…それと、」
そして徐にホセに向き直り、更に一言。
「頼むから俺にまで敬語使うの、止めてくれないか?…何だかくすぐったくなってくる」
言われた側は、訳が分からず瞬きをする。再びカルロスは笑っていた。
遠目に見れば、それはただの森だ。だが、間近にしてみると、彼らの知っている森ではな
い。
彼らが親しんだ広葉樹は姿を潜め、周囲を埋め尽くすのは針葉樹の群。
遠くに来てしまった。カルロスではないが、その思いは一層強くなる。木漏れ日の中、腰
を下ろすやいなや、バルはやはり親の形見だという古びた地図を広げた。
「今いるのが、だいたいここら辺り。…だいぶサヴォからは離れたから、そろそろ山を下
りて街道にでても大丈夫とは思う。でも…」
一端言葉を切ってから、バルは二人の顔を見やる。それから言いにくそうに言葉を継いだ。
「どの程度、サヴォが勢力を拡大しているか、と」
「プロイスヴェメがどちらに付いたか、ですね」
ホセの言葉にカルロスは頷く。いかに同盟国とはいえ、利害関係が働かないはずはない。
ラベナ陥落で大国プロイスヴェメがどう動いたか。これまですれ違う人もおらず、その動
向に関する情報は皆無に等しかった。
無言のまま地図を見つめるバルに、カルロスは穏やかに切り出した。
「…氷の女帝がサヴォと手を結んだとなれば、どの道を通っても一緒だよ。どうせなら早
いほうが良い。…これ以上、バルに迷惑をかけるわけにも行かないし…」
「悪いけど、俺はもう少し付き合わせてもらう」
話の先を読まれて、カルロスは目を丸くする。対するバルは不適な笑みでそれに応えた。
「今更戻っても、下手すれば途中で捕まる。生憎、俺は申し開きが出来るほど器用じゃな
い」
言いながらも、バルの手が傍らに置いてある弓に伸びた。平時は穏和なホセの表情が鋭さ
を帯びる。尋常でない気配を感じたカルロスは、正面を見据える。重苦しい空気が辺りを
支配する。ホセの右手が、剣の柄にかかる。しかし…。
「殿下?!よくぞご無事で!!」
「オルランドか?どうしてここに?」
茂みの中から姿を現した騎士に向かい、カルロスは笑みを浮かべ歩み寄る。苦笑を浮かべ
るホセの脇で、緊張が解けたのかバルは座り込んでいた。そして、ひとしきり主との再会
を喜び合ったオルランドは、二人に向き直った・
「黒豹、お前も無事か。まあ、殿下と一緒に見失ったから、大丈夫とは思っていたが…」
「思っていたが、とは…どうかしたんですか?」
言葉の背後に『何か』を感じ、ホセは怪訝な表情で尋ねる。その様子にオルランドは漸く
安堵したようだった。
「いや…例の侵攻だが…、内側から手を引いた奴がいた」
「その様子だと、誰だか解っているのか?」
厳しい表情のカルロスに、オルランドは一つ頷く。そして、至極言いにくそうに重い口を
開いた。
「先頃、イノセン五世は、ある人物のフェナシエラ王即位を支持しました。…事実上の傀
儡と言ってもいいと思いますが…」
「だからそれは、誰なんだ?」
「…大将軍の…困ったことに、黒豹、あんたの兄上、フェルナンド=デ・アラゴン殿さ」
「…な…!」
カルロスとホセは、言葉を失い立ちつくす。
訳の分からぬバルは、そんな騎士達を見つめていた。

第九章 オルランド
オルランドと呼ばれた草群から現れた騎士は、フェナシエラの民としては珍しい金髪と、
透き通るような水色の瞳をしていた。その瞳を巡らせながら、カルロスを初めとする一行
をぐるりと眺めやる。それは憮然として立ちつくすバルのそれとぶつかった。
「そちらはバル。アルタの村から世話になりっぱなしなんだ」
「アプル山麓の、ですか…それでご到着が遅れたんですね」
言いながらもオルランドはバルをまじまじと見つめる。そのいかにも物珍しいような物を
見るような視線を嫌って、バルはぷいと横を向いた。
二、三度、オルランドは瞬きをしていたが、何かに気が付いたようにあっと息を呑み、慌
ててカルロスを省みる。対するカルロスは、いつもの微笑を浮かべているだけだった。
ぽん、と手を叩き、なにやら納得すると、オルランドはつかつかとバルに歩み寄り、先刻
とはうって変わって屈託のない笑みを浮かべその手を取る。今度は唖然とするバルをよそ
に、オルランドはその手をぶんぶんと上下に振った。
「いや失礼。そう言うことなら申し訳なかった。以後、よろしく頼む」
何が起きているのか解らずに、言葉を失うバル。するとオルランドは一歩後ろへ下がり、
今度は恭しく跪き頭を垂れた。
「申し遅れました。私、パロマ侯配下の騎士、オルランド=デ・イリージャと申す者。主
に変わり、この度のこと、心より御礼申し上げます」
全く予想の付かないオルランドの行動に、バルは茫然としてその場に立ちつくす。そんな
二人を微笑を浮かべて見やっていたカルロスが、漸く助け船を出した。
「まあ、オルランド…そのくらいにして…。ごめんバル。オルランドはいつもこうなんだ」
でも悪気があるわけじゃないから。そう言うカルロスに一つ頷いてみせると、バルは再び
そっぽを向いた。
「所で、今更だが、どうしてこんな所に?」
頭を上げたオルランドは、もう一度バルに悪戯っぽい笑みを向けてから、改めてカルロス
に向き直った。
「失礼いたしました。我々は本国脱出後、殿下のお言葉に従い、プロイスハイムに逗留し
ておりましたが、日々交代で殿下をお迎えするため、この辺りに詰めておりました」
「皆は…皆は無事なのか?」
「全員…と言うわけには参りません。プロイスハイムに集結できたのは配下のおよそ三分
の二といった所でしょうか…。加えて殆どが、大なり小なり、傷を負っております」
「そうか…」
さすがにオルランドの顔からは笑みは消えている。だが、現実を目の当たりにして言葉を
失うカルロスを元気づけるかのように、努めて明るく切り返した。
「しかし、生き残った奴らはそれなりに悪運の強い奴らと言うことになりましょう」
王都奪還の戦、貰ったも同然です、そう言うオルランドにつられて、漸くカルロスに穏や
かさが戻る。しかし、少し離れたところでは、相変わらず重い表情で立ちつくしている人
物がいる。オルランドはそれを見逃さなかった。
「お前の姿が見えなかったから、良からぬことや縁起でもないことを言い出す奴らがいた
が…これで一安心だ」
けれど、話を振られた側は、それに乗ってこない。僅かの沈黙の後、ホセは躊躇いながら
も漸く口を開いた。
「先ほども言っていましたが…何が…いえ、何を…」
考えを上手く言葉に出来ず、切り出しては見た物のホセは言葉に詰まる。だが、一端大き
く息を付いてから、彼は意を決したように口を開いた。
「…フェルナンド様…兄上が、一体何を…」
「俺も見た訳じゃないから、詳しくは知らないんだが…。けれど、老ピピンが言うには」
歴戦の勇者である重臣の名に、ホセの表情は硬さを増す。オルランドは一度カルロスを見
やり、主が点頭するのを確認してから言葉を継いだ。
「黒豹、お前も知っての通り、老ピピンは大将軍閣下と共に遠征に出られていた。それが、
あのサヴォの侵攻の前夜…、フェルナンド殿が突然…」
オルランドは再び言葉を切り、ホセを正面から見据えた。
「大将軍閣下を、手に掛けた…」
「…閣下を…?そんな…」
「俺も、最初聞いたときは、さすがの老ピピンも耄碌したかと思った。だが、現に大将軍
閣下の一件で遠征軍が浮き足立つのを見計らうようにサヴォ軍はこちらを攻撃し、それに
呼応するようにラベナもナポから海軍により急襲されている」
まずいことに、状況証拠がそろいすぎている。加えてこの度の即位承認だ。疑いようもな
い。ホセの目が僅かに細められる。
「こういっては何だが…何か遠征前、それらしいことは無かったか?」
「解っていれば…いえ、ご自身の考えを私に悟らせるような方では、ありませんので…た
だ…」
「ただ?」
「遠征に出られる前、一度お会いしたのですが…一言、殿下をお守りせよと…。それだけ
言って…」
ホセの言葉にオルランドは難しい表情を浮かべ、腕を組む。それを遮ったのは、意外にも
バルだった。
「…考えるのは、どうやら後にしといたほうが良さそうだぞ…」
その手には、使い慣れた弓が、構えられていた。そして…。
周囲の空気の異変に、騎士達は気が付いた。

第十章 遭遇 
二人の騎士が剣を抜くよりも一瞬早く、バルは木立に向けてつがえていた矢を放った。遙
か彼方で騎手を振り落としながら馬が走り去っていく。二本目の矢を手にする間に、周囲
からは鬨の声が上がった。
「やるじゃないか。援護は頼んだぜ」
弓を構えるバルに笑みを向けてから、嬉々としてオルランドは敵の輪の中に切り込んでい
く。遅れること数秒、ホセもそれに続く。
だが。白刃を手にしたホセの表情を初めてみたバルは、思わず弓を取り落としそうになっ
た。
その顔には、カルロスに勝るとも劣らない、あのいつもの穏やかな微笑はない。東方民族
特有の光彩を放つその瞳は、獲物を狙う獣さながらの鋭い光を湛えて相手を見据えている。
そして、ついにその右手が閃いた。細い光の帯が空間を切り裂くと同時に確実に立ちふさ
がる物は姿を消し、自身はその身を深紅に染める。口元にはわずかに冷笑さえ浮かんでい
るようだった。
「危ない!」
カルロスの声にバルは咄嗟に我に返る。見ると背後から迫っていた『賊』を、カルロスが
切り伏せる所だった。間近で飛び散る血飛沫に、バルは思わず顔を背ける。
「…戦場でのホセは、ホセじゃない」
背中合わせに立ちながら、小声でカルロスが囁く。その言葉に改めてバルはホセを見やっ
た。先ほどと全く表情を変えることなくホセは剣を振るっている。その姿はさしずめ鬼神
のようだ。けれど、それはまるで…。
「自分から、危ないところに突っ込んで行ってるみたいだ…」
「だからフェルナンドはいつも心配していた。死に急ぐな、と…」
驚いたようにバルは振り返る。
フェルナンド=デ・アラゴン。それはサヴォと手を結びこの度の侵攻の発端を作った人物。
けれど、今のカルロスの言葉からは、そんなことをするような裏切り者の印象は微塵にも
感じられない。それが何故…。
堂々巡りを始めようとしていたバルの思考はだが、現実の前に中断された。耳元で再び、
鈍いいやな音がする。カルロスが二人目を切り倒したのだ。けれど、一向に状況は好転し
ない。さすがに至近距離から矢を放つこともできず、バルは背負っていた剣に手をかけ、
鞘に入ったまま相手を殴り倒す。そしてふと、周囲に視線を巡らし、彼はあることに気が
付いた。
「…どうしたんだい?」
「…いない…」
そう。ついさっきまで喜々として剣を振るっていたオルランドの姿が、いつの間にか見え
なくなっている。圧倒的多数の敵の中に紛れてしまったのではなく、消え失せてしまって
いるのだ。
そうこうする間にも、確実にバルはカルロスから引き離されていく。こうなっては援護す
るどころではない。自分の身を守るだけで精一杯だ。
「まさか、あいつ…」
良からぬことを考え、バルは低く呟く。けれど…。
「おららおら!邪魔だぁ、どけえ!!」
突然一台の馬車が何の前触れもなく乱入してきたのだ。御者台で手綱を握っているのは他
でもなく、先ほどまで姿の見えなかったオルランドその人である。
「殿下、お早く!」
乱戦を蹴散らし、オルランドは乱暴に馬車を止めた。カルロスは走りより、それに駆け込
む。そして身を乗り出しながら叫んだ」
「ホセ!バル!早く!!」
「俺にかまうな!早く行け!!」
思わず叫び返すバル。カルロスが何かを言い返す前に、バルはさらに続ける。
「あんたには待ってる人がいっぱいいるんだ!いいから早く!!」
ふと御者台のオルランドと目が合い、バルは苦笑を浮かべる。オルランドはやや沈んだ表
情で一つ頷くと、手綱をふるった。
走り去る馬車。どうか無事で。柄にもなく祈るように見送りながらバルは剣を握りしめる。
それに応えるかのように馬車の姿は遠く、小さくなっていく。後は少しでも時間を稼げれ
ば。ふとそんな考えが脳裏をよぎったとき、聞こえるはずのない馬の嘶きが、身近で聞こ
えた。耳を疑いながらも、バルは振り向く。
「バル!手を!!」
敵から奪ったのだろうか。全身を返り血で深紅に染めたホセが、騎上から手を差し伸べな
がらこちらに向かってくる。一瞬の躊躇いの後、バルはその手を取った。一気に身体が馬
上に引き上げられる。
「舌を噛むので、口を開けないで!」
今まで聞いたことのないくらい、鋭いホセの声。同時に彼の操る馬は敵陣を一瞬のうちに
飛び越え、馬車が消えた方向へと向かい走り去っていた。
後に残されたのは折り重なる死体の群と、呆然とするサヴォの兵達だった。

第十一章 『古傷』 
周囲にはすでに宵の帳が降りている。
『神聖王国』フェナシエラの最後の嫡流たるカルロスが体を休めている馬車の傍らで、一
人焚き火を見ていたバルは、ふと、草の揺れる音を耳にして、あわてて弓を手に振り向い
た。だが、その顔にはすぐ安堵の表情が浮かぶ。
「どこへ行ってたんだ?…急に姿が見えなくなるから」
「…すみません…少し…頭を冷やしてきました」
言いながらホセは一つ頭を下げる。言葉の通り、真っ直ぐにのびた黒髪はしっとりと濡れ、
手にしている革製の甲冑からは水滴が滴り落ちている。
「そんな所に突っ立ってないで火に当たれよ。そのままだと風邪引くぞ」
いつもと変わらぬ口調のバルに、再びホセは頭を下げる。そして、彼からやや離れたとこ
ろに、申し訳なさそうに腰を下ろした。その様子をあきれたように見やっていたバルは、
そちらに向けてタオルを放った。
「カルロスは今、中で休んでる。金髪の兄さんは周囲を見てくるって、どっかに行った」
あっけらかんとしたバルの言葉に、ホセはわずかに意外そうな表情を浮かべた。
「…バル一人を、殿下のお側に残して、ですか?」
「少しは俺を信用してくれたんだろ?…あんたが拾ってくれても、文句も言われなかった
し」
言いながらバルは乱暴に火をかき回す。そしてやや照れたように口を開いた。
「さっきは、ありがと、な」
「…え?」
「何でもない」
バルの手つきがさらに荒くなる。ホセはわずかに頭を揺らした。
「いえ…かえって…妙なところを見せて…驚かせてすみませんでした…」
「え…と…」
バルが何かを言いかけたとき、それまでうずくまるようにして炎を見つめていたホセが不
意に姿勢を正す。その視線の先では、いつの間にかカルロスが穏やかな微笑を浮かべて立
っていた。
「もう少し休んでろよ。今まで歩き詰めが響いてるんじゃないか?」
病み上がりなんだから無理するな、と言わんばかりのバルに、カルロスは笑って首を横に
振った。
「いつまでも怪我人でいるわけにはいかないよ。…一応上に立つ物としてはね」
「そんなもんか?」
「そんな物さ」
悲しいことにね、そう言いながらカルロスは火を挟んでバルの正面に腰を下ろす。けれど、
心なしかそのカルロスは、どことなく今までの…よく知っているその人ではない。ふとバ
ルは、その炎に浮かび上がるその顔を見つめながら思った。
国境から離れたせいだろうか、あれからサヴォの追っ手に出会うこともなく、順調に行程
は進んでいる。御者台で手綱を操るオルランドの隣でふてくされたようにそれを見つめる
のが、ここ数日のバルの日課になっていた。
日に数度、休息をとる以外、カルロスとは顔を合わせることも言葉を交わすこともない。
馬車を守るように殿から騎馬でついてきているホセに至っては言うまでもない。ここに来
て今更ながら、バルは旅の同行者達が遠い世界の存在であることを気づかされていた。
延々と沈黙が流れる。都合二日ほど、この状態は続いていた。会ってからまださほど時間
のたっていない両者が、切り出すタイミングを掴みかねている用でもあった。だが、先に
そのきっかけを作ったのはオルランドの方だった。
「あの時はすまなかった。奴に変わって礼を言う」
突然の、予想外の言葉に、バルは二、三度瞬きし、首を傾げる。が、それが初めてオルラ
ンドに会ったときの戦闘のことを指していると理解し、あわてて首を横に振った。
「そんな…助けてもらった俺の方が礼を言わなきゃいけないのに…ホセもそうだったけど、
一体…」
「あの黒豹を見た後で、その手を取って、それまでと変わらず接してくれただろ?」
謎かけのようなオルランドの言葉に、バルは再び首を傾げる。オルランドの横顔には、何
とも言い難い表情が張り付いていた。
「…奴は…なんと言ったらいいかわからないけれど、たぶん見えない深い傷を負っている。
剣を手にすると理性はその傷の痛みに耐えかねて、」
一度言葉を切り、オルランドはバルを見据える。そして身じろぎ一つしないバルを見据え
たままゆっくりと言った。
「己の死を、望む」
周囲の温度が一気に下がったような…そんな感覚にバルはとらわれた。独白にも似たオル
ランドの言葉が、その上を通過していく。
「そんなあいつをかろうじて繋ぎ止めていたのが殿下とフェルナンド殿だ。だが、そのフ
ェルナンド殿が…」
やりきれない。そう言うようにオルランドは目を伏せた。轍のにぎやかな音だけが両者の
間に響く。が、しばらく躊躇した後、バルは思い切って口を開いた。
「でも…何でそんなことを…?俺はただの通りすがり…」
いたずらっぽい笑みを浮かべ、オルランドはバルに向かって人差し指を突き立てた。予測
不可能なオルランドの行動に閉口しながらも、だが『知りたい』という好奇心が勝り、バ
ルはおとなしく続きを待つ。
「君なら、奴を繋ぎ止めることが出来る。そう思った」
「俺が…?どうして?あんたの方が…」
「残念ながら、自分はその器じゃない」
きっぱりとオルランドは言い切った。再びバルは瞬きする。そしてすねたように口をとが
らせた。
「貴族様のあんたに出来ないことが、どうして俺に出来るんだ?」
「さあ…何というか、君には独特の何かを感じる。自分には無い何かを」
そんな気がしたのさ、そう言うオルランドの顔は人の良い照れたような笑顔だった。

第十二章 『障壁』
山々の間からわずかに見えていた白亜の城壁が、次第に目前に迫ってくる。そのあまりの
迫力に、その手の物を初めて目にするバルはぽかんと口を開けたまま隣に座るオルランド
の視線を気にすることもなくただ見入っていた。
「開門!オルランド=デ・イリージャ、帰還である!開門されたし!!」
オルランドの声に応じるように、ぎしぎしと音を立てて跳ね橋が堀に下ろされる。その動
きをはじめから終わりまで食い入るように見つめていたバルに笑いかけてから、オルラン
ドは手綱をふるう。一行は城門の中へと吸い込まれていった。内部に馬車が迎えられると、
待ちかまえていた騎士や兵士達が口々に歓喜の声を上げる。馬車から降りるやいなや、カ
ルロスは走り寄る人々にすっかり取り囲まれていた。目を丸くしながら御者台から降り立
ったバルの後ろには、いつの間にか馬を引いたホセがいた。
「凄いな…本当に…カルロスは、みんなに慕われているんだな…」
「ええ。直接殿下にお仕えする者からは…」
曖昧なホセの言葉に、バルは振り返る。当のホセの顔には、今まで見たことがない自嘲と
苦笑とが入り交じったような表情が浮かんでいた。
「実は…ラベナの一部高官の間では、私たちパロマ候配下の者は名前だけは高貴な寄せ集
めとか、何処の馬の骨かわからない自称貴族の集まりとか、そう言われているんです」
「な…どうして…?」
「私は…筆頭騎士の私からして、アラゴンの名を名乗っていますが、候の実子ではありま
せんし…」
「自分も見ればわかると思うが、生粋のフェナシエラ人じゃない」
ようやく人波から脱出してきたオルランドが、言葉を継ぐ。相変わらずの神出鬼没ぶりに
あきれながらも、だがバルはあまりのことに憮然としたように口を閉ざす。だが、いつも
と変わらぬ人好きのする笑顔を浮かべたまま、オルランドは実にあっけらかんとした口調
で続けた。
「こんな風に見た目とか正嫡かどうかなんて気にしないで殿下は人材を引っ張ってくるか
ら色々なのがそろっているわけさ。頭の固い中央の御偉いさんにはわからないみたいだけ
れど」
「へえ…」
再びバルは、自分を取り囲む人々一人一人に笑顔で応じるカルロスを見やった。その姿は
彼が良く知るあの穏やかさに加え、アプル女候程までは行かないが、人々の上に立ち、命
を預かる者が持つ独特の雰囲気さえ感じさせる。だが、何かが違う。その違和感の正体を
突き止めようとしたとき、突然のオルランドの囁き声が、その思考を停止させた。
「…女帝の…マルガレーテ陛下のお出ましだ」
それとほぼ同時に、ざわめきは次第に水を打ったように静まっていく。集まっていた人々
は自ら道をあける。人々が傅く中、共の者を数人後ろに従えたまだ若い女性が姿を現した。
「あれが名高き『氷の女帝』だ。…こっちに世話になってから何度かお見かけしたが」
一度言葉を切ってから、オルランドは生真面目な表情を作ってバルとホセとを交互に見や
った。
「…あの方の笑顔を…微笑みも含めて、まだ一度も見たことがない」
白い石造りの堅牢な建物を、バルは何をするでもなくただ見上げていた。自分はただの通
りすがりの一般市民なのだから、城壁の内側に入れただけでも破格の処遇であるに違いな
い。そうとはわかっていてもこうして一人、外に取り残されてみるとそれをいやと言うほ
ど思い知らされた。
カルロスは無事、同盟国にたどり着いた。もう自分の役目は終わった。帰ろう。…でも、
何処へ?
ぐるりとバルは周囲を見回した。外に出ようにもどう言って跳ね橋を下ろして貰おうか。
下らないことを堂々巡りのように考え続けるバル、だが呼び止める者がいた。
「フェナアプル、アルタ村のバル殿ですな?」
プロイスヴェメ独特の、少し固い響きのフェナシエラ語に、バルは戸惑いながらも頷く。
口元に髭を湛えた壮年の武人は、それを認めると礼儀正しく一礼した。その顔にはわずか
に微笑みを浮かべている。
「失礼。私はゲオルグ=フォン・プロイスハイム。…先ほどからパロマ候が貴殿をお待ち
です」
武人…ゲオルグの言葉にバルは目を丸くする。が、この申し出は歓迎こそすれ断る理由は
ない。ゲオルグに導かれるまま、バルは場内へと足を踏み入れた。案内された一室は、城
内ではさほど広くない部類に入るのだろう。しかしその面積はバルの家とあまり変わらな
いようでもあった。
借りてきた猫のようなバルの姿を認めると、カルロスはすぐさま立ち上がって迎え入れ、
そして遅くなってごめん、と頭を下げた。
「もっと早くに話を付けるつもりだったんだけれど、時間がかかってしまって」
「話を付けるって、…何を?」
「表向きは、殿下お抱えの従者と言うことで話を付けたんだ」
これから頼むぜ、同士、とでも言うようにオルランドがバルにウインクを返す。自分がい
ないところで進んでいた話に唖然とするバルに、カルロスは笑いながらその肩を2.3度
たたいた。
「こんな所まで巻き込んでしまって…必ずどうにかするから…」
それまでは一蓮托生という訳か。言葉には出さず、バルはだが安堵とも苦笑とも付かない
表情を浮かべて見せた。そしてふと、見慣れた顔が一つ、足りないことに気が付いた。ど
うしたのか、と口を開きかけたとき、背後の扉が前触れもなく開いた。
「すみません。伯に伺うつもりが、逆にいろいろと質問を受けてしまって…」
頭を下げるホセに、オルランドはひらひらと手を振った。
「悪いな。最近親父も話し相手がいなくて退屈してたみたいだな」
「いえ…相変わらずピピン翁はお元気ですね。お怪我と伺っていましたが、安心しました」
「気ばかり若いんだよ。…それをよくわかっているから逆に辛いんだろうけど」
両者のやりとりを、バルは無言のまま見つめる。ふと気が付くと、カルロスの様子がおか
しい。無事目的地に着いたはずなのに、その顔にはどこか深く沈んだような陰があった。
「どうしたんだ?無事味方と合流できてうれしくないのか?」
「…それはそうなんだけれど…」
苦笑いになりきらない、どこか落ち着かない表情で、カルロスは決まり悪そうにバルから
視線を逸らす。その先を何気なく追うと、そこには先ほどから一言も発さず、衛兵よろし
く扉の脇に立ちつくしていたゲオルグのそれとぶつかった。
「実は…我が国も現在、内外に火種を抱えておりまして…候に援軍を出せる状況にないの
です」
落ち着いた、だが言葉の発音と言うこと以上に固い声が室内に響く。戸惑いながらもバル
は再び室内に視線を巡らす。その中で、絶対の信頼関係で結ばれているはずのカルロスと
ホセが、意識的にか無意識にか、目を合わせようとしないのを、彼は見逃さなかった。

第十三章 『楽園の騎士団』
『楽園の騎士団』。それはプロイスヴェメを拠点とする傭兵団の一つである。傭兵団とは言
っても王侯達とは一線を画し、どちらかと言えば義賊的性格の方が強い。それがより顕著
となったのは『隻眼のヴァルキューレ』が台頭してからである。
その異名を持つ女性はシシィ、と仲間内から呼ばれていること以外、素性ははっきりして
いない。だが、名実ともに優れた武人であり指揮官であり、指導者であった。同時に彼女
は権力を、殊に貴族や騎士階級の者をひどく嫌悪していた。
そのシシィが『楽園の騎士団』の先頭に立ったとき、まず最初にしたこと北方の大国ルー
ソと国境を接する要地ザルツワルトの急襲であった。少数とは言え、予想だにしない攻撃
にザルツワルトはもろくも陥落し、以後帝都ヴェメとの連絡は全く途絶えてしまったので
ある。
「悪いことに、ザルツワルト伯は…所謂暴君の部類に入る人物でして…。領民達は喜んで
『楽園の騎士団』を迎え入れたとか…。今現在は、自治領の様相を呈しているそうです」
僅かに苦渋の表情を浮かべながらゲオルグは話を締めくくった。バル以外の面々には先ほ
どの皇帝との会見時に既に知らされていたのだろう、別段驚きのような物は感じられない。
「皇帝陛下はこの状況を打開すべく、ヴァルキューレとの会見を望んでいるのですが…い
かに同盟国の危機とは言え、後背の守りが手薄となった今、兵力を削くことは出来ません」
折しも季節は夏から秋。不凍結港をのどから手がでるほど欲している北方の大国ルーソが
動くのは、今を置いて他にはない。確かに時期が悪すぎる。ゲオルグの言葉に、バルは賛
意を示すように頷いた。
それを確認すると、ゲオルグはおもむろに、先ほどから申し訳なさそうに戸口に佇んでい
るホセに向き直った。
「されど…これはあくまで我が国内の問題です。いかに忠節のためとはいえ…ヨーセフ・
フォン・アラゴン殿、貴方が出向かれずとも…」


先刻から無言のまま、ホセは黙々と旅装を整えている。あの時、戦場で目にした物とはま
た異なる種類の近寄りがたさを感じ、バルは手伝おうにも手を出せずにいる。そんなバル
に気が付いたのか、ホセは準備の手を止め、ふと顔を上げる。いつもと変わらない武人ら
しからぬ穏やかな笑みを浮かべて。
「…こちらにおいで頂くのですから、相手に対して礼を尽くさなければなりません。殿下
の名代、とすると、私が行くのが当然のことでしょう」
バルの言葉を先回りするように、ホセは静かに告げる。そしてふと、その表情に影が差し
た。
「…それに、私のカンが当たっているとしたら、やはり私が適任ではないかと思うんです」
「それは、カルロスも承知の上か?」
その言葉に、主従の気まずい雰囲気の理由を問いかけるような響きを感じてか、ホセは苦
笑を浮かべ頷いた。
「ええ…だから殿下は、あまり快く思われていないと思います」
どうやら両者の間には、納得済みの『何か』が有るらしい。だがその背景が見えてこない
バルは顔をしかめつつ首を傾げる。その様子を見、今度はホセの顔に微笑が浮かぶ。
「では、しばらく留守にしますが…、殿下をお願いいたします」
でも、自分ではあんたの代わりにはなれない。口には出さずバルは視線で訴える。そんな
バルの頭上を、独白とも付かないホセの言葉が流れていった。
「皆、殿下のご即位を心から願っているんです…私も、恐らく兄上も…」

翌朝、まだ日も昇り切らぬうちに単騎旅立つホセを塔の上から見送るカルロスに、バルは
声さえかけられずにいた。その心中を察すると、必死に威厳を保ちながらも泣き出しそう
になるのを堪えているような背を見つめるのが精一杯だった。
「どうやらもう出てしまったようですな」
聞き覚えのない声に、バルは思わず振り向く。見ると、オルランドに支えられながら、一
人の老騎士が狭い階段を登ってくるところだった。
「起きても宜しいのですか?イリージャ伯」
その声に応じるカルロスの顔は、やはりどこか泣き笑いのようだった。が、それを無視す
るように老騎士は大声で笑った。
「何の。あのやぶが寝ていろと言うからその通りにしているまでのこと。ご命令とあらば
すぐにでも…」
「無理するなよ。いい歳して」
そのあまりの大声に、肩を貸すオルランドは閉口するようにため息を付く。
その様子を興味深く深く見やるバルの視線と、イリージャ伯ピピンのそれとが不意にぶつ
かった。あわてて頭を下げようとするバルを、伯は手を挙げて制した。
「いや結構。殊の成り行きはこやつと黒豹殿から聴いておる。…時にバル殿」
突然名を呼ばれ、バルは姿勢を正す。それを見て気むずかしげな老騎士は僅かに笑ったよ
うだった。
「儂は以前、あのあたりで狩りをした物だ。その折り、フェナアプルにも良く立ち寄った
のだが…フェダルは息災かな?」
聞き覚えのある単語に、カルロスの表情が僅かにこわばる。だが、その問いかけに対する
バルの返答は、あまりにも素っ気ない物だった。
「…戻ってくる物だと思っていたのですが…どうやら、亡くなったようです…。剣を残し
て行かれましたから…」
一瞬イリージャ伯の目が、大きく見開かれる。が、やがて心底がっかりしたように肩を落
とすと、低く言った。
「…そうか…やはり…鷲殿の言ったことは、嘘ではなかったか…」
が、この後半はあまりにも低く、他の物の耳には届かなかったらしい。しばしの沈黙の後、
それを確認するかのように周囲を見回したイリージャ伯は、再び大声で笑った。
「心配めさるな殿下。アラゴンの黒豹は必ずや戻りましょう…我々と、氷の女帝へ良い土
産を持って」
その言葉に、カルロスは頷く。だが、イリージャ伯の言葉には、それ以上の意味があるら
しい。暗にそれを察しながらもそれが何であるか分からないバルは、何度目かの取り残さ
れたような気分を感じずにはいられなかった。

第十四章 『凍てついた玉座』
ホセがザルツワルトに旅立って後、表面上は穏やかに時間が過ぎていった。
無事同盟国にたどり着いたカルロスが、フェナシエラの正当な継承者として、しなければ
ならないことは自らの生存を隣国に知らしめ、共に侵略者であるサヴォに対抗するよう仕
向けることである。
が、言葉にしてみるのは簡単なことだが、なかなか容易ではない。例えば書状でいかに訴
えようにも、偽書だと握りつぶされてしまえばそれまでである。
面識のある王侯には直接出向けば手っ取り早いのだが、先方が既に懐柔されている可能性
もある。歓待の裏で何をされるか解らない以上、この方法も取るわけにもいかない。
かくして確率的にはさして期待は出来ないが、書状の物量作戦の決行のため、カルロスは
プロイスヴェメ城の一室に籠もることとなった。
「そんなに心配するなよ。片道二日はかかるんだろ?」
不意に声をかけられ、カルロスは思わず振り返る。盆の上に水差しとコップを乗せたバル
が、僅かに苦笑を浮かべながらそこに立っている。二、三度瞬きしてから、カルロスはバ
ルの視線の先を見やると、果たしてそこにはすっかりペン先からインクを吸い取り真っ黒
になった紙があった。
気まずそうな表情を浮かべながら彼はそれを丸め、半ば一杯になったく屑籠の中へと放り
投げる。そうして出来た場所に、バルは手にしていた物を置いた。
「…言いたいことははっきりしているんだけれど、いざ書こうとするとなんて書いたらい
いのか解らないんだ」
取り繕ってみても、内心の動揺は隠せない。上に立つ者として失格だね、ふとカルロスは
笑った。だが、机の端に行儀悪く腰をかけたバルの口から出た言葉は、思いもかけない物
だった。
「…俺が、様子を見に行ってくる」
いったん手にした水差しを、カルロスは無意識に机の上に戻す。ごとり、と重い音がした。
「でも…」
「今更何言ってるんだよ。乗りかかった船じゃないか」
「そんな危険な目に遭わせるわけには行かない」
些か強い口調で言い返し、勢い良く立ち上がるカルロスに、バルは僅かに首を傾げる。
「俺は他のみんなと違って正式なあんたの臣じゃない。だから逆にあまり縛られることな
く、自由に動くことが出来る」
「けれど…、」
「それに、相手が恨んでるのはあんた達偉い人なんだろ?あいにく俺はただの一般人だ」
別に俺は恨みを買っている訳じゃない。そう言いながらバルは屈託無く笑う。まだ納得が
いかないようなカルロスに、彼はとどめとも本音ともつかない一言を投げかけた。
「俺よりも頼りになる奴は、金髪の兄さんとか他にもたくさんいるじゃないか。実のとこ
ろ、俺は城の中なんて慣れないから…少し外に出たいんだ」
そのあまりのあっけらかんとした口調に、カルロスは気を削がれたように息をつき、すと
んと腰を下ろす。そして急に緊張が解けたように声を立てて笑い始めた。ようやくそれま
で…正確に言えばヴェメに到着してからこの方流れ続けていたどこか硬直したような重苦
しい空気が溶けた。
「…そう言えば…」
それを見計らったかのように、バルはおもむろに話題を変える。
「この国の皇帝陛下は、どうしてそこまで『楽園の騎士団』に…ヴァルキューレにこだわ
るんだろう…」
当然と言えば当然とも言えるバルに、カルロスは謎かけのような答えを返した。
「…ここはフェナシエラじゃないから…いや、だからそこ、こんな悲劇が起きたのかも知
れない」
「え?」
「陛下には、弟君と母君が違う妹君がおられた」
目を伏せ、バルからの視線から逃れるかのようにしながら、カルロスは静かに話し始めた。
プロイスヴェメ先帝ハインリヒには、先妻エリザベトとの間にマルガレーテとヨーゼフ、
エリザベト没後に娶った後妻アンネ・マリアとの間にセシリアと、三人の子どもがいた。
プロイスヴェメの法では生まれた順に関わらず男子が女子に優先するため、皇帝の再婚と
セシリアの誕生は世嗣ヨーゼフの立場に何ら影響は与える物ではなかった。
だが、自体は思わぬ方向へと急変した。元々身体が弱かったヨーゼフが幼くして病没した
のである。後はお約束通りの跡継ぎを巡る重臣達の泥沼の権力争いである。困ったことに、
生まれ順ではマルガレーテが有利であり、母親の家柄という点ではセシリアの方が優勢で
あった。
そして、争い続ける重臣達に先帝は残酷とも言える方法で自らの意志を示したのである。
「あそこに塔が見えるだろ?」
徐にカルロスは窓の外に見える塔を指さした。周囲の建物とは明らかに違う造りのその塔
は、絡まる蔦や壁面を覆う苔の色も手伝って、どことなく暗く不気味にバルの目に映った。
「先帝陛下は、アンネ・マリア妃とセシリア姫をあそこに幽閉したんだ」
「じゃあ、今も二人はあそこに…?」
バルの問に、カルロスはゆっくりと首を左右に振る。
「それからしばらくして先帝がお隠れになったとき、暴走したマルガレーテ陛下派の一部
が塔の中になだれ込んだ。もちろん目的は解るだろ?」
予想通りの答えに重苦しさを感じながらバルは頷く。カルロスは塔を見つめながら低い声
で続けた。
「アンネ・マリア妃は彼らの手に掛かることを嫌って自ら命を絶った。けれど、セシリア
姫の姿はどこにもなかった、らしい」
「…らしい、って…」
拍子抜けしたようなバルに、カルロスは困ったような表情を見せる。空のままのグラスを
両手で弄びながら、独白のように彼は言葉を継いだ。
「正確に言うと、誰も真実を知らないらしい。その時妃が手に掛けたとか、逆臣の手に掛
かったとか…最初から姫はそこにいなかった、とか言う人もいるくらいだから…」
しばらくバルはそれを反芻するように黙り込んでいたが、やがて何か合点がいったのか、
小さく声を上げた。
「じゃあ、女帝は妹を捜してるって訳か…」
偉い人のやることはよくわからない。そう言いながらバルは水差しを手に取りカルロスの
持つグラスに水を注ぐ。再び水差しを机上に戻してから面白くなさそうに呟いた。
「それにしても…どうして偉い奴はそんなに家とか力とかにこだわるんだ?…あいつの兄
貴も、似たようなもんなのか?」
グラスの水の表面を見つめるカルロスの表情が、ふと厳しくなる。その彼の口から漏れた
のは思いも寄らない物だった。
「いや…私には、フェルナンドが何故あんなことをしなければならなかったのかが、解る
ような気がする…何より彼は…正しくない行いをこの上なく嫌っていたから…」バルがこ
の謎のようなカルロスの言葉の意味を理解するのは、再びプロイスハイムに戻ってからの
こととなる。だが今はまだ、物事の本質を漠然とすらとらえることは出来ないでいた。

第十五章 『金鷲旗』
目の前には、冷たく閉ざされた城門がある。彼がここにたどり着いてからただ一度だけ開
かれたきり、ぴったりと閉ざされ、全く動く気配はない。それどころか、この城門の内側
にも全く軍団の…人の気配を感じることは出来ない。
扉が一度開かれた時、生ける神話とも謳われる『ヴァルキューレ』ことシシィが、彼の前
に姿を現した。鋭く光る青い隻眼で彼を一瞥すると、彼女はこう言い放った。貴様らはい
つも、都合の良いときだけ私たちを利用するのか、と。
「ここにいる者達は、私と同様大なり小なりの傷を負っている。私のように目に見える傷
なら痛みは直に癒える。けれど、目に見えない傷の痛みは、大きくなりこそすれ消えるこ
とはない」
激しい怒りと言葉とを、彼は無言のまま受け止めた。一瞬ヴァルキューレの顔に意外そう
な表情が浮かんだが、再び彼女はきつい口調で言い切った。例え女帝本人がここまで出向
いても会ってやるつもりはない、と。
そして扉は閉ざされたまま、彼だけが外に取り残された。彼は自らの予想が正しかったこ
とを痛感すると同時に、自分の読みが甘すぎたことを悟った。けれど、このまま手ぶらで
戻るわけにも行かない。良からぬ考えが一瞬彼の脳裏をよぎったとき、背後で人の気配が
した。反射的に剣を抜き振り返る。が…。
「何だよ…物騒だな…」
そこにいたのは、喉元に剣を突き立てられ両手を方の高さに挙げるバルだった。大きく溜
息をついてからホセは抜き身を鞘に戻し、再び城門に視線を移した。
「すみません…少し苛立っていたようです…それよりも…」
「ちゃんとカルロスの許しは貰ってる。と言うよりあれから見ちゃいられなかったから、
強引に出てきたって言う方が正しいかもしれない」
そうですか、と答えながらもどこかその言葉は上の空である。そんなホセに並んで立ちな
がら、バルもまじまじと強固な城門を見やった。
「ヴァルキューレは中にいるのか?」
「ええ…恐らく…ですがこの所、内部からの生活臭を感じることが出来ないんです。朝夕
に炊事の煙が立ち上るのも見えませんし…」
「そう言えば…上に見張りもいないみたいだな…」
言われてみれば確かに妙である。門自体は強固だが、それを護る人の姿がない。或いは物
見櫓に潜んでいるのかとも考えたが、それにしても炊事時に煙が見えないのはおかしい。
「あんたの後ろに軍勢でも潜んでるとでも思われたんじゃないか?」
非戦闘員はどこかに避難したんじゃないか、そう言いたげなバルに、ホセは僅かに首を傾
げる。そうするとあの時出てきたシシィは時間稼ぎをしたと言うことか。だが彼女ほどの
人物が、わざわざ危険を冒してまで一人で敵の前に出てくるだろうか。しかしホセの疑問
をよそに、バルはどんどん城門に向かって近づいていく。そしてホセが止めるよりも早く、
扉に手をかけた。そして…。「…開いてるじゃないか…」
「え…?」
手をかけ、僅かに押しただけで、一瞬の抵抗の後重々しい音と共に城門は口を開いた。唖
然としながらもホセは歩み寄り、内部を伺う。予想通り、ザルツワルトの真ん中を貫く大
通りには人の影を見ることは出来なかった。ふと横を向くと、どうする?と言わんばかり
のバルと目があった。
「行ってみましょう。武器は…?」
その問いかけに、バルは背中の弓を指し示した。一つ頷くと、ホセは内部へと足を踏み入
れた。
街の中は、人っ子一人、猫の子一匹見あたらない。やや小高いところにある旧領主の館…
恐らく今はシシィがそこにすんでいるのだろう…に至るまで、全く人の気配はない。だが、
そこかしこにはためく洗濯物などから、人々はつい最近までここにおり、せき立てられる
ように異動を余儀なくされたのだろうことが理解できた。
「…街の造りってどこの国もあまり変わらないんだな。真ん中に広場と聖堂があって、四
方に道があって…」
ぐるりと見回しながらバルが呟く。建物の材料である石の色が違う以外、彼らが慣れ親し
んだフェナシエラの街と大差はない。中央広場に立ちつくす二人は、四方をぐるりと見回
した。だが、やはり動く物は何もない。
「街の入り口は、あそこだけなのかな?」
「いえ…それでは攻められたときに退路が無くなるので、何カ所かあるはずですが…」
言いながらホセは、やはり街の人々は裏門かどこかから脱出したのだ、と確信した。そう
だ、何も出入り口はあそこだけではない。自らの失策に大きく溜息をついた、その時だっ
た。
僅かに蹄の音がする。二人の間に、緊張が走る。ホセが束を握る手に力を込めたのとほぼ
同時に姿を見せたのは、裸馬にしがみつくようにしている女性だった。よく見ると、馬も
乗り手も傷を負っている。ようやく広場にはいると、馬は乗り手を放り投げ力つき崩れ落
ちた。
「どうしました?しっかりして下さい!!」
慌てて駆け寄り、抱き起こそうとするホセに、女性は悲痛な声で叫んだ。
「あたしのことはどうでも良い!それより…シシィを助けて!!あいつらに…」
言葉が解らず立ちつくすバルに、その内容を伝えてから、改めてホセは女性に向き直った。
「あいつら…?ルーソの襲撃ですか?」
「いや…あれは…あの青い旗は、ルーソの旗じゃない…。攻めてきた方角もルーソの方じ
ゃない…一体、誰がシシィを…」
青い旗、と聞いて、ホセの顔色が変わった。剣を手にしたときとはまた違う厳しい表情に、
バルは何も言えずにいる。ややためらって後、ホセは女性に尋ねた。
「青い旗と言いましたね…他に何か書かれていませんでしたか?」
「海の色の十字と…王冠と、盾と、剣と…金の鷲…」
「旗の他に、何か…」
「旗の上に…あんたの瞳の色とよく似た…布が…」
女性の言葉に、ホセは目を閉じ、首を左右に振った。心配そうにのぞき込むバルに、ホセ
は絞り出すように告げた。
「王冠と盾と剣は、アラゴン候旗です…その中でも金鷲旗は、フェルナンド様の物で…紫
の旗印は…直属の部隊の物です…」
「でも…わざわざどうしてこんな所まで?」
「恐らく…殿下と同じことを考えられたのでしょう。でも同盟を結ぼうとした相手は、殿
下とは違っていた…」
言いながらホセは女性の傷の状態を確認する。命に別状なしと判断すると、バルに手当を
頼み、立ち上がった。何処へ行く、と呼び止めるバルに、ホセは沈痛な面もちで告げた。
「ヴァルキューレ殿を、取り戻しに行って来ます。方角は東で間違いはありませんね?」
信じられない、と言うような表情を浮かべながらも、女性は頷く。止めようとするバルに
ホセは僅かに笑いかけた。「大丈夫。必ず戻ります。しばらく、待っていて下さい…」

第十六章 『ミネルヴァの降臨』
「…貴女が私たちに対して、どのような思いを抱いているか、少なからず理解しているつ
もりではいます。でも、我々の中にも、そのような者達を許せぬ者もいる、それをご理解
いただきたいのです」
言いながら女性は自信に満ちた笑みを浮かべる。身にまとっているのは僅かに細工の施さ
れた白銀色の甲冑である。だが、それはお飾りで陣頭に立つ者のために作られたそれでは
なく、自ら剣を持ち先頭に立つ者のために作られた実戦仕様の物であった。その時点でシ
シィは、自分の目の前に現れたのは数少ないフェナシエラの女性騎士、『カプアのミネルヴ
ァ』と畏れられるベアトリス=デ・カプアであることを理解した。
「無論、このような行動にでたことは心よりお詫びいたします。ですが…」
「…貴様らは、いつもそうだ。力で全て、事足りると思っている」
容赦ないシシィの言葉に、ベアトリスは苦笑で応えた。
「事前に使者を立てたはずですが、受け入れては頂けなかったようですので…」
「ならば力ずくで、と言うことか。…一介の傭兵団長相手に、名高きミネルヴァ殿が何故
そこまでする必要がある?」
「…一介の傭兵団長などではないことを、貴女ご自身がもっとも御存知なはずではありま
せん?」
にこやかに笑いながらもベアトリスはやんわりと、だが、確実に急所を突いてくる。口元
に笑みを浮かべてはいるが、その目は刺すような鋭さでシシィを見つめている。言葉を交
わしてはいけない。そう察したときは既に、もっとも触れられたくない事実を、ミネルヴ
ァは掴んでいた。ついにその視線を受け止めかねて、シシィは視線を逸らした。
「…私は…楽園の騎士の長…それ以外の何者でもない」
「認めるのが、そんなに恐ろしいのですか?…貴女ご自身が、お仲間がもっとも忌み嫌う
者の一員…いえ、憎悪の対象の総本山であることを…」
だが、ベアトリスの言葉は、外堀を完全に埋めてしまう前に突然の闖入者によって遮られ
た。本陣を取り巻く哨戒兵の間にざわめきともどよめきともつかない声が広がる。そして、
伝令が転がり込むように彼女の前に姿を現した。
「何事だ?」
苛立ちながらベアトリスは立ち上がる。気の弱い者であれば震え上がるであろうその迫力
にも、だが駆け込んできた伝令には何ら感慨も与えたようではなかった。いや、さらなる
恐怖に彼は囚われていたのである。
「て…敵襲…!!既に中堅まで突破されています!」
その瞬間、それまで自信に満ちていたベアトリスが僅かに青ざめたように感じられた。だ
が一呼吸置いてからすぐに冷静さを取り戻すと、落ち着き払った声で彼女は言った。
「黄金の鷲第一の精鋭に盾突く愚か者が…女帝の配下か?それとも楽園の騎士がヴァルキ
ューレを取り戻しに来たのか?」
だが、伝令は凍り付いた表情のまま首を横に振る。不審げに身を乗り出すベアトリスに対
し、彼はかすれる声で告げた。
「いえ…そのどちらでもありません…ですが…」
「はっきり言え!!」
「敵は僅か一人…あれは…」
彼が言い終わる前に、至近距離で鬨の声が上がる。それは次の瞬間には断末魔の絶叫に変
わった。一瞬の沈黙。そして、周囲を覆う天幕が外側から血に染まった。固唾をのんで入
口を見つめる彼らの前に、全身を真紅に染めた来訪者がついに姿を現した。肩で息をしな
がら獲物を見据えるような鋭い視線を投げかける突然の招かれざる客を、ベアトリスはや
や強張った笑みで迎え入れた。
「相変わらず剣を手にすると狂気に飲み込まれてしまうようだな、アラゴンの黒豹殿は…」
「そのようなことを議論するためにここに来たのではない。ミネルヴァ殿」
かつては同じ旗の元に集い戦った両者の間には、再会を喜び合う言葉はない。戦場のそれ
に似た、張りつめた空気だけが流れる。何度も死線を乗り越えたことのあるシシィでさえ
言葉を発することすら出来ずに、魅入られたように立ちつくしている。痛いくらいの緊張
感の中で、先にそれを遮ったのはホセの方だった。
「何故…貴女ともあろう方が…。貴女ならばフェルナンド様を…兄上を止めることも出来
たでしょう…それなのに、何故…」
「私はフェルナンド=デ・アラゴン様にお仕えする一騎士だ。主命に従うのは当然のこと。
…それに」
一度言葉を切り、ベアトリスは僅かに視線を落とした。そして、かろうじて聞こえる程度
の低い声で呟いた。
「あの方が蜂起を決意された理由なら、君の方が良く知っているはずだ」
果たしてその声が届いているか、無言のままホセはベアトリスを見据えている。両者を代
わる代わる見つめていたシシィの視線がある一点で止まった。鬼神の如く立ちつくしてい
るホセの右手には、赤黒い血糊のついた剣が握られている。だが、その左手は、脇腹のあ
たりを押さえている。その部分を染める朱は、明らかに他の部分とは違っている。鮮やか
な朱の色は、次第にその面積を広げているようだった。
「さすがの猛将も、どうやら無謀なことをしたようだな」
どうやらベアトリスもその異変に気が付いたらしい。その顔には苦笑にも似た表情が浮か
んでいた。その間にもホセの息は荒く、早くなっていく。このままでは危険だ。そう思っ
た瞬間、咄嗟にシシィは叫んでいた。
「ミネルヴァ殿、私は貴方とは行けない。彼に…彼にまだ聞きたいことがある!それが先
ほどの答えだ」
苦しげなホセの顔に、だが僅かに驚きの表情が浮かぶ。対するミネルヴァは、何故か声を
立てて笑った。が、すぐさま振り返ると、彼女は全軍撤退を告げた。そして改めて向き直
ると、唖然とする両者に向かってこう言った。
「取りあえず今日の所は失礼する。…またいずれ、戦場でお会いするとしよう」
その言葉が終わるか終わらぬかのうちに、ホセの手から剣が滑り落ちた。休息にバランス
を失い崩れ落ちるホセに、慌ててシシィは駆け寄る。その様子を寂しげな笑みで見届ける
と、ベアトリスはその場を後にした。

第十七章 『消えない傷跡』
いつものように彼女は格子のはまった窓から下界を眺めていた。母親や乳母など、近しい
者とここに押し込められてからどの位経っただろうか。窓の外の風景は、四季の訪れを幾
度と繰り返したが、平穏に行き過ぎていった。今日までは。
だが、今日は少し違っていた。遙かに見える城のてっぺんにはためく旗が、いつもより低
い位置にある。窓という窓のカーテンは閉じられている。幼い彼女には、それで一体何が
起こったのかを察することは出来なかった。少し視線を下の方に動かすと、いかめしい甲
冑姿の何人かが、こちらに向かってくるのが見えた。一体何事なのだろう。考えるよりも
早く、慌ただしく扉が開かれた。青ざめた表情でそこに立ちつくしていたのは、常に穏や
かな乳母だった。
「…どうしたの?怖い顔をして」
「姫様…私と参りましょう。お后様はもう先に行かれました。私がご一緒しますので、何
も怖いことはありません」
「…行くって…どこへ?」
だってここから出られないじゃない、そう言う前に、彼女は乳母の右手に光る物があるの
に気が付いた。とっさに後ずさるその時、階下からけたたましい音が響いた。
がちゃがちゃという、甲冑の音が次第に近くなる。乳母は手に閃くナイフを掲げ、にじり
寄ってくる。恐怖のあまり彼女は窓にすがりつく。そして…錆び付いた格子が彼女の体重
に絶えかねて外れた。重力にあらがうことが出来ずに、彼女の身体は窓の外に放り出され
た。そして…。
「偶然…木の、枝。引っかかって。けれど、代わりに、左目が」
たどたどしいフェナシエラ語に、ホセは慌てて身を起こそうとした。だが脇腹に走る激痛
に小さく悲鳴を上げる。その声に気が付いたバルが、立ち上がり苦笑いを浮かべながら意
識を取り戻した猛将の顔をのぞき込んだ。
「気が付いたのか?無理すんなよ。すっぱり切られちまってて、まだふさがってないんだ
から」
「…バル…?ここは一体…」
「ヴェメの城。シシィがあんたをシュワルツワルトまで運んできて、そっからは俺とシシ
ィと、金髪の兄さんの馬車呼んで、どうにか」
寝台の上で頭を巡らすと、バルの後ろに少し決まり悪そうにしているヴァルキューレの姿
があった。
「シュワルツワルトに帰り着いた友人を…助けてくれたそうじゃないか…借りを返しただ
けだ」
その言葉に僅かにホセは笑みを浮かべる。バルの手を借り半身を起こしながら、いつもの
穏やかな口調で言った。
「陛下…姉君にはお会いになったのですか?」
面白くなさそうに一つ頷いてからシシィはぷいと横を向いた。ひとしきり笑い合ってから、
バルはふと、そんな彼女に向き直った。
「そういや、あんたは何か聞きたいことがあるって言ったじゃないか」
そう言えば。だんだん遠くなっていく意識の下で、そんなシシィの叫びを聞いたような気
がする。僅かに首を傾げるホセに、シシィは低い声で言った。
「…私たちは…楽園の騎士団は、貴様らから大なり小なりの傷を負わされた。そう言ったの
を覚えているか?」
ホセが頷くのを確認すると、彼女は一歩歩み寄り、そしてそれまでの思いの丈を一気にぶ
ちまけるようにまくし立てた。
「殆どの奴らは、そう聞くとひたすら許しを請うか、ムキになって否定するかのどちらか
だった。けれどお前はそのどちらでもなかった。何故?どうして謝りも否定もしない?!」
むき出しの感情を正面から受け止めてなお、ホセは穏やかな表情を崩しはしなかった。だ
が、なにやら心を決めたらしく、脇に立つバルに告げた。
「すみません…寝ている間に汗をかいたようで…申し訳ないですが…」
頷くとバルは次の間に姿を消す。完全にその姿が見えなくなってから、ホセは静かに切り
出した。
「肯定も否定もしなかったのは、私が事実を知っているからです」
謎かけのような返答に大きく息をのむシシィに少し笑いかけてから、彼は身につけている
夜着に手をかけた。
「見ていただければおわかりかと思いますが、私はフェナシエラ人ではありません。市井
の移民の子孫が、ひょんなことからアラゴン候の屋敷に上ることになったんですが…」
言いながらホセは、夜着を脱ぎ捨てた。抜けるような白い肌が露わになる。だが、シシィ
の視線はある一点に釘付けになっていた。半ば青ざめながら、ようやくのことで彼女は口
を開く。
「お前…その焼き印は…」
丁度、右の肩口のあたりだった。だいぶ色は薄くはなっているが、そこに残っていたのは
明らかに『アラゴン候の私有物』であることを示す焼き印だった。自らの表情を隠すよう
にうつむきながらも、絞り出すように彼は言葉を継いだ。
「裕福な貴族が、縁もゆかりもない子どもを引き取る…そしてどうするか、貴女なら御存
知でしょう。…屋敷に上がったその日、候は何も解らない私に手ずからこの印を押し…激痛
で意識を失いかけた私を、無理矢理寝台に…」
そこで不意に言葉はとぎれた。突然頭上から降りかかった白い夜着を振り払うと、その視
線の先には無表情に立ちつくすバルの姿があった。
「…どうでも良いけど、早く着ろよ。今度は熱出した、なんて言ったら面倒見切れないぜ…」
再び室内に静けさが戻った。シシィの姿はすでにない。
黙々と掛け布団をなおしていたバルは、呟くような声に、顔を上げた。
「…え?」
「…汚らわしいですか?」
天蓋の布を真っ直ぐに見つめたまま、固い声でホセは繰り返した。
「殿下の…パロマ候の筆頭騎士たる者としては、相応しくない…そう思いますか?」
思い沈黙が流れる。だが、いつもと変わらぬつまらなそうな表情のバルの口から出た言葉
は、思いもよらない物だった。
「…俺が知ってるのは、今のあんただ。昔のあんたは関係ない」
「…バル…?」
「いいから早く休めよ。あんたが早く治らないと、俺じゃカルロスを護ることは出来ない
んだぜ…」
苦笑を浮かべながらバルはホセの顔をのぞき込む。そして水差しの中身を変えてくる、と
告げてから彼は外へと出ていった。残された側は、両の手で顔を覆い、必死に嗚咽を堪え
ていた…。
丁度部屋を出たところで、バルは自分を呼ぶ声に振り向く。そこにはパロマ候カルロスと
その配下オルランド=デ・イリージャが立っていた。腹心の様態を気にするカルロスに、
バルはいつもと変わらぬぶっきらぼうな口調で答えた。
「さっき意識が戻って…今、丁度シシィが帰ったとこで…もうしばらく休ませてやった方が
いいと思う」
その言葉にカルロスはようやくほっとしたような笑みを浮かべる。だが、オルランドはい
つになく難しげな顔をしている。それに気付き、いぶかしげな顔をするバルに、オルラン
ドは笑いながら言った。
「いや…黒豹は良かったとして…君の顔色が、あまりにも悪いから…何かあったのかと思っ
て」
痛いところをつかれてバルは言葉に窮する。が、視線を逸らしつつも、彼は口を開いた。
「…見えない傷を…消えない傷を見ちまったから…悪いことをしたと思って…」
何があったのか、そしてバルが何を知ったのか、それを察したのかカルロスの表情が僅か
に曇る。が、それを意に介さず、オルランドは少々乱暴にバルの背中をたたいた。
「けど、君ならそれを和らげることが出来る。前にそうは言わなかったか?」
「難しいことを一般市民に押しつけるなよ。貴族様が聞いて呆れるぜ」
互いに顔を見合わせながら二人は思わず吹き出す。それにつられてカルロスの顔にも笑み
が戻る。
…故国奪還前の、つかの間の休息だった。
短いプロイスヴェメの夏は、既に終わろうとしていた。

夜明けの歌 月夜の涙 第二部 終
『夜明けの歌 月夜の涙』 まだまだ(一応)連載中(爆)
さて、第三部はサヴォ編にするか、完結編にするか…。
ご意見ご感想などもしありましたら
sorah04@hotmail.com
までお願いいたします。
変光星
http://henkousei.tripod.co.jp/

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