『夜明けの詩 月夜の涙』第3部ダウンロード版

この文章の無断転載、改編改良(笑)を禁じます。 

急章 『夢の顛末』

静まり返る王家の墓地。木漏れ日の中、まだ新しい墓の前に、一人の女性が佇んでいた。
端正な、やや鋭い印象を与える顔は、厳しい表情を浮かべたまま銘のないその墓石を無言で見据えている。
どれくらいの時間が経っただろうか。彼女は意を決した課のように唇をきつく結ぶと、腰の剣に手をかけた。抜き身の白刃が光を受けてきらきらと光る。その剣をしばらく見つめてから、鋭利な刃を自らの首筋へ突き立てようとした、まさにその時だった。
「いけません!ベアトリス様!!」
悲痛な絶叫。
そして、突然の乱入者は今まさに彼女の血を吸おうとしていた剣をその手からたたき落とした。乾いた音が墓地の中に響く。それとほぼ同時に、彼女は力無く膝をついた。それまでの緊張がとぎれたのか、青ざめた頬を涙が伝い落ちる。困惑したように立ちつくす乱入者に、ベアトリスは力無く言った。
「…何故…何故止める…?」
「…ベアトリス様…」
不安げに近寄り、跪く乱入者。だが、ベアトリスは突然、その胸ぐらを掴み、激しく揺さぶった。
「どうして?どうして主の元に…フェルナンド様のお側に行かせてくれない?私に生き恥を晒せと言うのか?!」
抑えきれない感情のままにベアトリスは泣き叫ぶ。ようやくその手から逃れた乱入者は、乱れた黒い髪を背中にはねのけると、呼吸を整え、低く呟いた。
「生き恥を晒しているのは、私も一緒です…」
未だ涙で濡れた瞳を大きく見開き、ベアトリスは乱入者を見る。見られる方は沈痛な面もちのまま、その視線から逃れるように、白い墓石を見つめた。
「…ホセ…?」
戸惑ったようにベアトリスは呼びかける。だが、彼にはその声は届いてはいないようだった。
「…私も…主を…殿下をお守りできなかった…それどころか、恩人であるフェルナンド様までも…」
うなだれるその顔は、癖のない長い黒髪に覆い隠され、その表情を伺い知ることは出来ない。だが、涙声ながらもはっきりと、彼は言い切った。
「ですが、殿下は私たちに生きて欲しいと願った…。もう誰も、傷ついて欲しくないと願った…。せめて…せめて殿下の最後のご命令を、果たさせて下さいませんか…」
「…ホセ…」

木漏れ日が、二人を、そして銘のない墓石を、暖かく包んでいた…。

第十八章 『女神の帰還』

磨き抜かれた白い石造りの廊下に、規則正しい足音が響く。その主は甲冑に身を固め、ぴしっと姿勢を正したまだ若い女性である。やや疲労の色は見受けられるが、その美しさを損なうことはなかった。いやむしろ、細身で鋭利な印象を与えるその顔を、引き立てているようでもあった。
その彼女は、一つの扉の前で足を止める。大きく息をつき、二度ノックする。返事はない。だが彼女は重いその扉を静かに押し開いた。
「…その様子だと、ヴァルキューレはミネルバの願いを聞き入れなかったようだな?」
その部屋の主は、彼女が室内に足を踏み入れるや否や、執務の手を止めることも、顔を上げることもせず、文字通り間髪を入れずにこう言った。その言葉に応じ、ベアトリス=デ・カプアは深々と頭を垂れた。そしてそのままの姿勢で、告げた。
「申し訳ございません…予想外の邪魔が入りました」
「女神の手を煩わせるとは、よほどの邪魔のようだな」
「…は…手負いの黒豹が、一頭…」
男の手が、一瞬止まる。ゆっくりと彼は顔を上げ、ベアトリスに鋭い視線を向ける。
「…この失敗は必ず…」
さらに深々と頭を下げるベアトリス。だが、その様子を頬杖をつき見つめる男の顔には、僅かに苦笑にも似た表情が浮かんでいた。
「仕方ないさ。ただでさえ戦場では手に余るのが、怪我を負っていたなら無理もない」
「…フェルナンド様…」
「気にするな。無駄足を踏ませてすまなかった。下がってゆっくり休むといい」
それ以上の弁明を遮ると、フェルナンド=デ・アラゴンはベアトリスに下がるよう促した。再び深々と一礼すると、彼女は恐縮したように部屋を後にする。
扉が重々しい音と同時に閉ざされると、フェルナンドは静かに立ち上がり、窓際に歩み寄る。どこを見るでもなく表を見つめるフェルナンドの目には、どこか安堵にも似た光が宿っていた。

『アラゴン候』は王室の分流で、武門に優れた家に与えられる称号である。今のアラゴン候はさかのぼれば先のカルロス三世の弟からの家柄である。
代々のアラゴン候は、フェナシエラ王の側近中の側近であると同時に、大将軍としてその軍事を一手に握る。『王の盾』という家紋が示すとおり、常に王の身近にあり守護する存在である。
他の貴族らから見えればまさに手の届かぬ雲の上の称号であるが、ある時フェルナンドは腹心ベアトリスと義弟のホセに、皮肉な笑みを浮かべながらこう言ったという。
…何のことはない。危険人物が勝手なことをしないよう、常に目の届くところへおいているだけのことさ…
慌てて二人はたしなめたが、フェルナンドはただその様子を笑いながら見つめているだけだった。
あまりにも強大な父親帆影にいると陰口をたたかれながらも、彼は残酷な真実を正面から見据えていたのではないだろうか。これまでの一部始終を目の当たりにしてきたベアトリスは、薄々そのことを理解しているつもりではあった。だが、ここまで来ても、その真意を測り知ることが出来ずにいた。
…一体、フェルナンド様は、どうして…いや、何のためにこんなことを…。
幾度となく脳裏をよぎった疑問が、再び頭をもたげる。磨き抜かれた廊下は、青ざめた彼女の顔を映しだしている。
「…今お戻りか?」
良く通る声に、彼女は慌てて顔を上げる。そこに立っていたのはサヴォ王の姉、アプル女候テレーズ=ド・サヴィナその人だった。
当代、甲冑姿が様になる女性は誰かと問われれば、間違いなくここにいる二人の名が上がるだろう。だが両者の決定的な違いは、女候は所謂貴婦人の立ち居振る舞いも板に付いていると言うことだ。劣等感にさいなまされながらベアトリスは慌てて壁際に退き、道をあけ頭を下げる。その内心を知ってか知らずか、女候は柔らかな笑みを返した。
「私とてサヴォ王室では邪魔者の身。改まらずともよい」
あまりの言いように、ベアトリスは目を丸くする。その様子に女候はさも楽しそうに笑った。
「それにしても、そなたも休む間のない様子、戦女神もさすがにお疲れなのでは?」
「いえ、決してそのような…主の命に従うことこそ、騎士の最大の喜びですゆえ…」
生真面目に返答するベアトリスにだが、女候の表情がふと曇る。
「フェルナンド殿は確かに聡明な方ぞ。されどその聡明さ故、自ら危険な道を選んでおられるように思えてならぬ…」
哀しげな表情から紡ぎ出される言葉が、ベアトリスに突き刺さる。
「…ひとえにあの方を制止できるのは、今はそなただけぞ。くれぐれも後悔せぬよう…」
再びベアトリスは深々と頭を垂れる。…似たような言葉を、最近誰かから聞かされた気がする…。
顔を上げたとき、女候の姿は既に小さくなっていた。

 

第十九章 『サヴォ王国』

フェナシエラの北西に位置するサヴォ王国は、大陸でも歴史ある大国に数えられる国の一つである。
建国より健在の体制を整えるようになるまで、そしてなってからも幾度となく王朝は交代したが、その王家が主張するところはいつの時代も等しく同じである。すなわち、「我が王家は元をたどれば神聖王国に連なる。よってその支配権は我が国にある」と言う物である。
サヴォは国境を接するフェナシエラを欲した。それは単純な領土欲ももちろんだが、フェナシエラの商用港が生み出す東方貿易の利益が最大の理由だった。
一年の大半を雪と氷で閉ざされてしまうルーソとは違い、サヴォに一年中使用できる港が無い、と言うわけではない。だが、サヴォが東方貿易に乗り出せない決定的な訳があった。
第一に、サヴォには大量の商船を常時受け入れるだけの規模を持つ港がない。サヴォに点在するのは小規模な漁港、そして対外的にはその場所を知られたくない軍用港であった。
では、作ってしまえば良いではないか、と簡単にことは運ばない。至高の王冠を頂いているイノサン5世は、先だって兄王を廃立して玉座に着いた。そのため、国内の有力者を未だ完全に従わせているとは言い難く、大規模な港の造成をする程までの力を有してはいなかった。
港が確保できたとしても、サヴォには海路という動かしがたいもう一つの問題があった。サヴォの沿岸から外海にでるにはどうしてもフェナシエラの領海を通らなければならない。自国の領海を通過する船をフェナシエラは細かく監視し、商用船には自国の利益を脅かさぬよう通行税を課していた。それでは結果的にサヴォに運び込むには莫大なコストがかかる。
陸路を介して東方へ行くにしても、やはり目的地チヌにたどり着くまでには無数の国を通り抜け、さらに砂漠を越えなければならない。どちらにしても、危険や要らぬ出費を避けるわけにはいかない。
かくして、幾世代にも渡ってフェナシエラとサヴォという国境を接した二大大国のいがみ合いは続いていたのである。
その宿敵とも言える関係のサヴォに、フェルナンドが迎えられてから、早くも三ヶ月が過ぎようとしていた。本を正せば王家に連なり、あまつさえ大将軍を父に持つ若者のこの行動の裏にある真意を、サヴォの高官達は測りかねていた。が、相手はまだ若く、ここで恩を売っておけば御しやすい。何より莫大な利潤を生み出すフェナシエラの実権が労せずして手に入る…。
したたかな打算の末、イノサン5世はこの若者の手を取ることを決断した。そして、実際、フェナシエラはその手中に転がり込もうとしていた。そう、表面上は。

名ばかりの『フェナシエラ王』と言う称号を頂いても、別段何が変わるというわけでもない。何よりフェルナンドは、配下を始めとする、本国から従ってきた者達に対し、自分のことを『陛下』と呼ぶことを禁じた。
その訳をイノサン5世に尋ねられたとき、彼は僅かに頭を下げながらこういった。
「ありがたくもイノサン5世陛下の支持は頂きましたが、私はまだ大司教より正式な戴冠を受けておりません。歴代国王の慣例を済ませていないこの身では、自ら王を名乗るのはおそれ多いかと存じまして」
この言葉を聞き、イノサン5世は決まり悪そうな笑みを浮かべるにとどまったという。
ベアトリスとの会見を終え、机の上に溜まった雑務の山がかなり小さくなった頃、遠慮がちなノックの音が室内に響いた。こんなおとなしい叩き方をする者は、彼の配下にはいない。彼は仕事の手を止め、勤めて穏やかに呼びかけた。
「お入り下さい」
しばらくしてから躊躇いがちに扉が開く。おずおずという形容詞そのままに入ってきたのは、見事な金髪のまだ少女と言って良い年齢の女性だった。
「貴女からここにいらっしゃるとは…一体何事です?カトリーヌ殿」
「あ…あの…ベアトリス様が戻られたと…伺ったので…」
戸口に立ちつくしたまま消え入りそうな声で話す少女に、フェルナンドは珍しく優しげな笑みを向ける。そんなところに立っていないでこちらにおかけになったら如何です、との彼の言葉に、少女はやや迷った後従った。執務机の斜め前にある長椅子に、少女がちょこんと腰を下ろしたのを確認してから、フェルナンドは穏やかに切り出した。
「先程下がって休むよう命じたところです。姫君がおいでになると解っていましたらもうしばらく引き留めたのですが…」
申し訳ございませんと頭を下げるフェルナンドに、カトリーヌは慌てて首を横に振った。
「いえ…わたくしの方こそ、もしかしたらお会いできるかと勝手に押し掛けたのですから…フェルナンド様が頭を下げられることは…何も…」
必死になっているカトリーヌに再び笑みを向けてから、フェルナンドはゆっくりと立ち上がり、背後の飾り棚から見事な細工の施された瓶を手に取る。そして僅かにカトリーヌに対し失礼、と会釈をしてから、瓶の中の赤い液体で机上のグラスを満たした。
「…あの…例の…ことなのですが…」
フェルナンドがそれに口を付け、再び机の上に戻すと同時に、カトリーヌは躊躇いがちに口を開いた。おそらくはこちらの方が本題だったのだろう。いたたまれなく思いながらも、彼はそれを表情に出すことなく言った。
「婚礼の件でしたら、辞退させていただきました。私はまだ正式に戴冠を受けてはおりませんし…」
驚いたように目を丸くするカトリーヌに、フェルナンドは悪戯っぽく片目をつぶって見せてから言葉を継ぐ。
「何より、想い人がいる女性に横恋慕するほど、私は野暮な男ではありませんよ」
その言葉に、カトリーヌは真っ赤になってうつむいた。膝の上できつく握りしめられた両手の甲に涙の滴が落ちる。様子の変化にフェルナンドは慌てて歩み寄り、優しく言った。
「始めてお会いしたとき、お約束したでしょう?必ず…」
「ごめんなさい…わたくし…フェルナンド様がお優しいので…甘えてばかりで…でも…わたくし、ユークリド様が…」
「泣いてばかりでは、ユークリド殿をお助けできませんよ」
先程までとは異なる口調に、カトリーヌは涙に濡れた顔を上げる。フェルナンドの顔に既に笑みはない。フェナシエラの海の色をした双眸には、直視しがたい光が宿っていた。
「貴女がお望みでしたら、私は喜んでお力になります、そうお約束、しませんでしたか?」
カトリーヌはこっくりと頷く。それを認めると、フェルナンドは再び柔らかい微笑を見せた。
「…そろそろお戻りになられた方がいいでしょう。後でベアトリスをやりますので、お待ちになっていて下さい」
静かに立ち上がると、カトリーヌは腰を折り、まるでお手本のように優雅なお辞儀をすると、しずしずと部屋を出ていった。
残されたフェルナンドは、言い難い表情を貼り使えたまま、机上のグラスを見つめていた。

 

第二十章 『契約』

「起きていても良いのか?」
ノックをせずに扉を開け、遠慮なくずかずかと足を踏み入れるなり、美貌のヴァルキューレは呆れたとでも言うように、その隻眼から苦笑にも似た視線を投げかけた。その言葉の通り、『絶対安静』を命じられているはずの猛将は、日当たりの良い室内に置かれた寝台の上で半身を起こし、困ったような表情で彼女を迎え入れた。
「動き回らなければ構わない、との許しは頂きましたし…何より…」
一度言葉を切り、ホセは読んでいた本を閉じる。そしてその表紙に視線を落としながら、呟いた。
「何より、何も出来ずに天蓋を見つめて寝ていると、嫌なことばかり思い出してしまうので…」
些細な言葉が持つ重い意味に、両者の間に沈黙が流れる。だが、すぐに気を取り直したシシィは、大股に寝台に歩み寄ると、その主の許可も得ずに当然とでも言うように脇へと腰を下ろした。突然の行動に思わず瞬きするホセを全く気にする風でもなく彼女は告げた。
「さっき、ザルツワルトの自治権を正式に貰った。万一の時は国境を護る盾になるが、自分の身を護ることだから問題はない。ここでの役目は全て終わった。明日早々、帰る」
「帰る…?では、王室には戻られないんですか?」
一息に言い切ったシシィの横顔を見つめていたホセは、遠慮がちに口を挟む。だが、返ってきた物は予想に反して、今まで見たことのないすがすがしい笑顔だった。
「私には、あそこにたくさんの友人がいる。私を気にかけて、城下まで来てくれた者もいるし…、そんな彼らを、捨てるわけにはいかない。それに、今更ここに戻っても、馬鹿なことを考える奴らが出てくるのがオチだ」
自分の存在が女帝の立場を危うくするのなら、今まで通りの生き方を選ぶ。その方がずっと気が楽だ。言いながら笑うシシィの顔を、ホセは複雑な面もちで見つめた。
「…どうした?何か不服か?」
「いえ…そういうわけではなくて…どうしてわざわざ私に?」
首を傾げるホセにやれやれとでも言うように軽く溜息をついてから、シシィは足を組み直した。
「お前には…その、色々世話になった。一応ことの結末を報告するのは礼儀じゃないか」
少し呆れたようなシシィの言葉に頷きながらも、ホセの脳裏には、直前に語られた彼女が『帰る』理由が取り憑いて離れなかった。そしてふと、ある思いが、彼を捉えていた。
…自らフェナアプル候となったロドルフォ殿下の心中も、こんな物だったのだろうか…では、自ら王位につくことを拒むような行動をとるカルロス殿下の真意は、一体どこに…。
「何をぼんやりしている?」
物思いに耽るホセを、シシィの声がふと現実に引き戻す。いつしか真剣な眼差しでホセを見据えるシシィの口から、こんな言葉が漏れる。
「一つだけ、聞き忘れたことがあった。…お前はどうして騎士になった?」
一瞬の躊躇いの後、別に答えたくなければそれでも良いと言うシシィの視線から僅かに逃れるようにうつむきながら彼は低く言った。
「他に…生きる術がなかったからです。あの時私に示された道は、騎士として生きるか、慰み者として死ぬかのどちらかしかなかった。だから…」
思わずホセは言葉を切った。気が付くとシシィの顔は、これ以上ないくらい間近にある。驚いて身を退こうとしたその瞬間、彼の唇にシシィのそれが触れた。
「…一体…」
内心の動揺を隠しきれずに問うホセに、その張本人は少しも悪びれもせず、悪戯を仕掛けた子どものような表情で答えた。
「今のは契約だ」
「契…約?」
「たった今からヴァルキューレと楽園の騎士団はお前と共にある。万一助けが必要になったら私を呼べ。例え地の果てにいようとも、お前の元にたどり着いてみせる」
そう宣言するシシィの表情に、既に笑みはなかった。神に誓いを立てる神官のそれに似た真摯な視線を受け止めかねて、ホセは思わず口ごもった。
「けれど…けれど私は、貴女の嫌う騎士で、貴族で…」
「お前は同志だ。私たちと同じ痛みを分かつ同志だ」
驚きのあまり、しどろもどろになるホセの反論を、彼女はぴしゃりと封じた。それ以前に、こんなに腰の低い騎士や貴族を今まで見たことがない、と言いながら再びシシィは破顔した。つられて苦笑を浮かべるホセだったが、ふと思い立ったように口を開いた。
「では、早速で申し訳ないのですが、力を貸しては頂けないでしょうか…」

 

第二十一章 『荒鷲の行方』

室内には、どこか言い難い空気が流れている。
定例の軍議、とは言っても集まっている人数はごく僅かだ。その彼らの視線の先には、フェナシエラの嫡流、パロマ候カルロスがいる。だが、その僅か後方に穏やかな笑みを湛えて常に控えているはずの筆頭騎士の姿はない。そのいつもとは異なる現実が、部屋の空気をより重苦しい物にしているようでもあった。
「ヴァルキューレ殿の配下が持ってきた情報は、まず間違いないと思います。…先日、自分の持っている情報網にも、似たような話は引っかかってきましたし…」
そのよどんだ空気の中、オルランドの良く通る声が流れる。透き通った水色の双眸に、今日はいつもの茶化したような光はなく、どこか冷たい氷のような鋭さで満たされているようであった。明るく気さくなオルランドのもう一つの面、それはパロマ候配下の『草』を一手に束ねる司令官である。その普段は見せることのない凍り付くような雰囲気に飲まれ、居並ぶ人々にグラスを配っていたバルは、思わずそれを取り落としそうになった。
「もっとも、この度の国内の混乱で、皆かなりちりぢりになっていることは否定できません。…下手をすると、ヴァルキューレ殿の方が、より正確に事態を知っているかもしれません」
頷きながらも、カルロスは机上に置かれた書状を見つめている。それは先刻、サヴォに潜入しているシシィの配下からもたらされた物だった。
それによると、先の戦のさなか、大将軍アラゴン候フェリペを殺害した後行方が解らなくなっていたフェルナンドが正式にサヴォ王室に迎えられ、滞在を許されているらしい。王宮にサヴォ王家の王旗と共に金鷲旗が掲げられていると言うことからも、まずフェルナンドがそこにいることは間違いないだろう。
だが、これだけ証拠を突きつけられても、カルロスはまだ心のどこかでフェルナンドを信じたい、と思わずにはいられなかった。
あれだけのことをしたのは、必ず何か、理由があるはずだ。そうでなければ、あのフェルナンドがあんなことをするはずがない…。
幾度となく去来するその考えに、カルロスはまた囚われていた。そして、フェルナンドがその行動をとらざるを得なかった理由は、と自問し、導き出された答えを慌てて否定した。まさか、そんなことが…。
主の沈黙に、再び室内の空気は重苦しくのしかかってきた。誰もがそれをうち破る機会を探りながらも、決定的な材料を持たず切り出せずにいる中、乾いたノックの音が前触れもなく響いた。
一同は不審に思い顔を見合わせる。プロイスヴェメからの協力者、と言う形で同席しているプロイスハイム候ゲオルグは、全く心当たりが無い、と言うように首を僅かに横に振る。困ったように戸口付近からこちらを見つめるバルに、カルロスは一つ頷いてみせる。それを確認したバルは、思い扉を押し開いた。
「どうでも良いけれど早くあけろ!重くてかなわん!」
扉が開くや否や聞こえてきたシシィの声が、よどんだ空気を一気に押し流した。唖然とする人々を完全に無視し、彼女はずかずかと室内に足を踏み入れる。そんな彼女に『引きずられる』という形容詞そのままに支えられながら姿を現したその人に、どよめきに似た声が部屋のあちらこちらから漏れる。自らの視界に入ってきた物を信じられずに、カルロスは思わず立ち上がる。
「何故…まだ動くなと…」
「こんな大事なときに、私一人寝ているわけにはいきません」
ようやく長椅子に身を落ち着けたホセは、色を失う主君に僅かに笑いかける。安堵と不安とが入り交じったような表情でカルロスが再び席に着くのを待ってから、オルランドは改めてホセに向き直った。
「お前がそのつもりならそれでもいいが、今日の議題はフェルナンド殿だ。それでも…?」
「私は殿下に剣を捧げました。…この度のことで私にも咎があると言うのでしたら、喜んでこの命を差し出します」
いつになく強い語調のホセに、シシィはまじまじとその顔を見つめる。オルランドが僅かに目を細め、再び何かを言おうとしたとき、カルロスは慌ててそれを遮った。
「…フェナシエラの法では、罪科は親兄弟にまで及ぶと定められていたか?ルーベル伯」
「…い、いえ、罪はあくまでも個人で背負うべき物。親族までに及ぶことはありませぬ」
前触れもなく名を呼ばれたルーベル伯ピピン=デ・イリージャは反射的に姿勢を正し、そう答えながら隣に立つオルランドの脇腹を小突く。決まり悪そうな苦笑を浮かべながらオルランドはいつもの明るい調子で言った。
「そうじゃなくて…病み上がりにこんな話じゃ、傷に響くんじゃないか?あまり聞いていても楽しい話しでもないし、下手すりゃ尋問にもなりかねない」
「いえ…何も出来ずにいる方が、逆に傷に障ります」
どうやら決意はそう簡単にひるがえりそうもない。やれやれと、あきらめにも似た吐息をつきながらオルランドは再び表情を改め、中断していた報告に目を戻した。
「では…フェルナンド殿と行動を共にしているのは直属の八千の他、どうやら亡くなられた候の配下も含まれているようで…少なく見積もっても一万五千弱」
そこまで言ったところでカルロスが手を挙げ遮った。
「候の配下も?彼らにとっては、フェルナンドは敵じゃないか。それがどうして…」
「自分もその点が腑に落ちないのですが…フェルナンド殿がよほど周到に計画を進めていたか、或いは、候がフェルナンド殿に殺されても仕方のないことをしていたか…」
オルランドは言葉を切り、殆どが自分よりも年長者である同席の人々の顔を臆することなくぐるりと見回した。少し離れた場所で様子を見ていたバルは、気付かれないようにオルランドの視線の先を追った。正面からオルランドの視線を受け止めようとしなかったのは、三人。大将軍の『暗部』を知るカルロスとホセ、そしてオルランドの父親であり、アラゴン候の長年の盟友であるルーベル伯だった。

 

第二十二章 『不協和音』

軍議が終わり、人気もなくがらんとした室内を一人黙々と片づけるバルだったが、ふと人の気配を感じて顔を上げる。戸口にはいつの間にか、プロイスハイム候ゲオルグがこちらを見つめ佇んでいた。慌てて頭を下げるバルに、候は穏やかに笑って見せた。
「言ってもらえれば人手を手配しますよ。この広さを一人じゃ大変でしょうに」
その申し出に、バルはぶんぶんと首を横に振る。
「…でも…言葉も良くわからないし…。一人でやってる方が気が楽で…。何より、何かしないと申し訳ないんで」
正直なバルの言葉に再びほほえむと、ゲオルグは手近な椅子を引き寄せ腰を下ろし、厄介なことになっているので少しこちらにかくまって欲しい、と言う。訳が分からないものの、バルは取りあえず一つ頷き、再び作業を再開する。
そんなバルの様子を、ゲオルグは何をするというわけでもなくしばらく眺めていたが、ふと思い出したように口を開いた。
「失礼ですが、貴方はアプル地方の出身ですか?」
全く脈絡のない問に、一瞬戸惑ったような表情を浮かべたバルは、すぐに首を横に振った。
「いや…育ったのはアルタだけど…。生まれたのはどこだか」
けれど何でそんなことを、と言いたげなバルに、ゲオルグは軽く手を振りながら言葉を継いだ。
「いえ、大した意味はないんですがね。パロマ候の配下の方にしては、珍しくフェナシエラ人と見て解る方だったので…」
なるほど。言われてみれば確かにカルロスの配下には、ホセと言いオルランドと言い、淡い茶色の髪に『フェナシエラの海の色』とも言われる深い青色の瞳を持つ、フェナシエラ人特有の容姿をしている人物は少ない。確か、プロイスハイムに入ったとき、それはカルロスが外見には全くこだわらないからだ、とオルランドから聞いたような気もする。
そんなバルの内心を知ってか知らずか、ゲオルグはつまらないことを聞いて申し訳ない、と生真面目に頭を下げた。再び沈黙の中、バルの作業の音だけが響く。だがそれは、第三者の乱入により突如として中断された。
「父上!どうして私に同席を許していただけないのです?!」
非難の声と同時に、扉は勢い良く開け放たれた。怒りのあまりか、頬を紅潮させた若者を、ゲオルグはやれやれ、とでも言うようにやんわりとたしなめる。
「私はマルガレーテ陛下のご命令に従っているだけだ。お前は私の名代としての役割を賜ったのだろう?エドワルド」
だがエドワルドと呼ばれた若者は、憮然とした表情のまま立ちつくすだけだ。
「お前がパロマ候に心酔しているのは良くわかる。だが、こればかりは私の一存では…」
「ならば直接候に伺って参ります!」
怒声にも似た捨て台詞を残し、若者は部屋を出ていった。その刹那、殺意に近い視線をバルに突き刺して。訳が分からず呆然とするバルに、ゲオルグは申し訳なさそうに言った。
「お恥ずかしいところをお見せしました…不肖、私の後嗣なのですが、まだまだ血気ばかり盛んで…」
再びバルは慌てて首を横に振る。けれどその脳裏には、先程伸さすような視線が焼き付いて離れなかった。

「だから言ったろ?おとなしくしてろって」
ぐったりと寝台に横たわるホセに言いながら、オルランドは行儀悪くテーブルに腰掛け、皿の上に積んであった林檎を一つ手に取ると、断りもせずそれを囓った。その様子を咎めることもせず苦笑を浮かべて見せてから、ふとホセは大きく息をついた。
「それにしても、何故…。一言の相談も無かったのに…」
「もし計画をうち明ければお前は絶対止めにかかる。それを振り切ってまで実行に移す自信が無かったのか、最悪、お前を手にかける気でいたか…」
本当のところはあの人にしか解らないさ。言いながらオルランドは芯だけになってしまった林檎を屑籠へと投げやった。それが見事な放物線を描いて目標物の中へと吸い込まれていくのを目で追って確認し終わって、オルランドはホセに向き直った。
「にしても…お前、本当に理由は思い当たらないのか?」
「パロマ最大の情報網を持つ貴方が知らないことを、私が知っていると思いますか?」
改めて水を向けられて、ホセの顔は僅かに強張る。それを一瞥してから、オルランドはテーブルから飛び降り、窓際へと足を向けた。光を受けてきらきらと輝く金髪のまぶしさに、ホセは僅かに目を細めた。
「実の父親を殺すだけじゃなくて、敵国と手を結ぶ。…フェルナンド殿は殿下の守り役を務めたくらいの方だ。それが王家に弓を引くようなことをする…殿下のご心痛もさることながら、何故そんなことをしなければならなかったのか…」
「大将軍閣下を、と言うよりは、『フェナシエラ王家』を恨む…というか、憎んでいるようでもありませんか?」
ホセの言葉に、オルランドは振り向いた。
「…そうだな…あの方は自分たちの知らない何かを知っている。そうとしか思えないんだ」
低く呟くオルランドの顔には、いつもの陽気さはなかった。冷たい、『間者の長』の表情を張り付かせたまま、彼はさらに続ける。
「…体調悪いところで申し訳ないが、もう一つ聞きたい。…『フェダル』。この単語に聞き覚えは無いかな?」
一時期、それこそ身近に耳にした単語が、全く予想外の人物の口から出たことに、ホセは数度瞬きを返す。
「…アルタの皆さんは、バルをそう呼んでいましたが…?」
「お前を見送っていたときな、親父が彼に言ったんだ。『フェダルは息災か』と」
腕を組みながらオルランドは言う。しばらく納得がいかない、と言うように彼は首を傾げていたが、やがてかみ砕くように切り出した。
「それに対する彼の答えはこうだ。『どうやら亡くなられたようです。剣をおいていくことは、そういうことだと』」
「じゃあ、『フェダル』というのは、元々バルのお父上、と言うことになりますね」
ホセの答えに、オルランドは僅かに目を細めた。
「そして、そのフェダルは、親父の知り合い、と言うことになる」
何だか、訳が分からなくなってきた。言いながらオルランドは大きく溜息をつくオルランドを見やりつつ、ホセは苦笑を浮かべながら言った。
「…実のところ、私に聞くまでもなく答えを知っているんじゃないですか?」
「さあな。推測は出来るが、確証がない。材料を探してるって所かな」
一瞬生真面目な顔をして、オルランドは答える。一瞬の沈黙の後、理由もなく両者は吹き出していた。

 

第二十三章 『孤軍の将』

…お前は、そこまでして王家に…カルロス殿下に忠誠を誓うか…
致命傷を負い、荒くなる息の元、アラゴン候フェリペは剣を構えたままのフェルナンドに凄惨な笑みを向けた。
…これも宿業か…親子二代にわたり王家のためにその剣を王家の血で染めねばならぬとは…
どういう意味だ。言い返すフェルナンドの声は僅かに震えている。既に何も見えていないはずのフェリペの目を、彼は正視できずにいた。
…カルロス殿下は、陛下以上に『フェナシエラ』の名を大事と思っておられる…お前の計画通りにことが運んでも、殿下は玉座に着くことはあるまい…今のままでは…
だから、どいういうことだ。苛立ちながらもフェルナンドは再び問う。
…そう、儂はあの時、陛下の世の安定のため、ロドルフォ殿下を…だが、それだけでは…
バランスを失い、フェリペの身体は音を立てて崩れるように自ら作り出した真紅の池の中に倒れ込む。虫の息の声を聞き漏らすまいとして、フェルナンドは一歩足を踏み出した。
…フェルナンドよ…あの噂は、紛れもない事実…殿下は、御成婚後なかなかお子に恵まれなかった陛下に…気を使われた…ロドルフォ殿下が…

「…フェルナンド殿、如何された?」
不意に声をかけられ、回想の海から引き上げられたフェルナンドは身体ごと振り返った。果たしてそこには、扇を手にしたアプル女候テレーズ=ド・サヴィナの姿があった。
「陛下がお見えになったとのことぞ。皆、宴の間に戻り始めておる」
何ぞ、お加減でも悪いのか、と尋ねる女候に、これは大変失礼を、とフェルナンドは頭を下げる。だが、表情とその声の固さは隠しようもなかった。そんな若き武将の姿に、女候は扇をぱちんと鳴らす。
「…あの、何か…」
不審げに首を傾けるフェルナンドの様子に、女候は優雅に笑って見せた。
「いや、氷の如き御仁と女官らに専らの評判のフェルナンド殿にも、人のお心があったようなので、安心したまで。お気に障られたのなら申し訳ない」
「…気に障るなど滅相もない…確かに、端から見ればそのように思われても仕方のないことです故…」
逆に肩をすくめてみせるフェルナンドに、だが女候は真剣な面差しを投げかけていた。では、そなたの本心は如何、とでも言うように。内心を見透かされることを畏れたのだろうか、僅かにフェルナンドの表情が硬くなる。と、その時、戸口に立っていた侍従が、宴の間に戻るよう、両者に声をかけた。僅かに安堵の溜息をもらすフェルナンドに、女候は再び笑いかけた。
「されど陛下も暇なこと。一体何度戦勝の宴を催せば気が済むことやら」
その言葉に、フェルナンドは絶句する。面白くて仕方がない、と言うように女候は小さく笑い声を上げてから、立ちつくすフェルナンドをよそに宴の間の人波へと消えていった。

賓客としてサヴォ王室に迎えられてはいる物の、フェルナンド=デ・アラゴンの立場はきわめて微妙な物だった。
サヴォ王国建国以来の悲願であったフェナシエラ陥落と併合の最大の功労者。且つ宿敵フェナシエラの王族に連なる者。抱き込んで傀儡とするにはあまりに危険を孕むこの若者を、そのまま野に放つ訳にもいかず、だが始末するわけにも行かず、イノサン5世は些か持て余していた、と言うのが正直なところである。
熟考に熟慮を重ねた上で彼が導き出した結論は、王女カトリーヌと縁談を結ばせ、形だけでもサヴォ王室との繋がりを持たせよう、と言うことだっただが、その思惑を知ってか知らずかこの若者は正論を持ち出してやんわりと拒絶した。
…後ろ盾を持たぬ若者が…何を考えているのか全く解らぬ不気味な奴。それがイノサン5世の、フェルナンドに対して下された評価だった。
そんな至高の冠を頂く者の内心はいざ知らず、当のフェルナンドは、今日も華やかな宴の間に集う、着飾った人々の輪から離れた所で一人佇んでいた。
人脈作りのために顔を売りに走るわけでもなく、かといって、全くサヴォの権力を握る者達の勢力相関図に興味がないわけでもないらしく、その瞳は常に隙無く居並ぶ人々の動きを見つめているようでもあった。
「如何した?相変わらずお一人でおられるとは」
作り笑いを浮かべながらイノサン5世はフェルナンドに歩み寄る。それまで無機質な彫像のように身動き一つしなかった若者は、衆人環視の中で優雅に礼を返す。
「私は生まれながらの武人にて…このように華やかな場所にはあまり慣れておりませぬ故…」
非の打ち所のない、完璧なサヴォ語である。いや、言葉だけではない。口では武人であると謙遜しながらも、所作振る舞い全てにおいて、フェルナンドはサヴォ宮廷で通用する物を教わるまでもなく完全に身につけていた。貿易王国フェナシエラの王族であると言ってしまえばそれまでだが、イノサン5世はどこか空恐ろしささえ感じていた。だが、それをおくびにも出さず、彼はやや皮肉な作り笑いを貼り付かせたまま言った。
「不似合いか…よほど貴公はその言葉がお好きと見える。我が娘もその一言で振られたか」
そんな一見完璧な若者を少し困らせてやろう、と言う気持ちでも働いたのだろうか。底意地の悪いイノサン5世の言葉に、フェルナンドは深々と頭を垂れた。
「そのような…あまりにも過ぎ足るお話でしたので…」
「…正式に戴冠を終えた暁には、考えてくれるな?」
「名実ともに、姫君に相応しいと認められますれば、必ず」

…それまでの間は、せいぜい、我が世の春を楽しむがいいさ…
言葉と態度では年長者であるサヴォ王を立てつつも、フェルナンドは内心毒ついた。
彼の真の目的は、力を手にすることでも、国を手にすることでもない。そのような大それたことではなく、個人的な復讐と、個人的な忠誠を形にすること、それだけである。
そして、真意を話してみたところで、この権力という汚物にまみれたイノサン5世はそれを理解することは無いだろう。いや、理解しようとすらしないだろう。尤も、内に秘めたその想いを、彼は話す気は毛頭なかった。
高笑いを残して、イノサン5世は次の人波へと消えていく。ようやく頭を上げたフェルナンドの視界に入ってきたのは、意味ありげな表情を浮かべたアプル女候、その人であった。

 

第二十四章 『矢は放たれたか』

「…では、こちらがご注文のお品物でございます」
貴方様ほどのお方でしたら、このような物は無用の物ではありませんか。言いながら慇懃な笑みを浮かべ、金色の小さなケースを手渡すと、男は小走りに去っていく。その後ろ姿を忌々しげに見送りながら、フェルナンドは大きく息をついた。
完全なまでに人の手によって作り上げられた不自然な自然が、彼の周囲を取り囲んでいる。人工的に組み合わされた草や木は、木漏れ日や木の葉のざわめきを演出することは出来ても、安らぎを与えることが出来るのか、と聞かれたら返答に困るところだ。
下草一本生えていない石畳を歩んでいくと、楽しげな笑い声が聞こえてくる。その方向を見やると噴水脇のベンチでなにやら談笑している女性達の姿が見えた。向こうもこちらに気が付いたのだろう。見事な金髪を日の光に煌めかせてカトリーヌは立ち上がり、大きく手を振る。その姿に、フェルナンドの厳しい表情がふっとゆるんだ。
知らぬふりをして行き過ぎるわけにもいかず、フェルナンドは右手に固く握りしめていた金色のケースをポケットにしまいつつ、そちらに向かって歩み寄る。姿勢を改めようとするベアトリスを軽く制し、僅かにはにかんだような笑みを向けるカトリーヌとベンチに腰を下ろしている女候とにそれぞれ頭を下げる。その彼の視界にふと、ベンチの上に載せられているゲーム盤が飛び込んできた。専ら戦場で戦のない時に騎士達の間で行われている、駒を動かし陣地を広げ敵の『王』を取れば勝ち、という物である。
「少し、ベアトリス様に教えていただいたんですの。でも、二人がかりでも伯母様にはかないませんわ」
僅かに肩をすくめながらカトリーヌが言う。確かに、その言葉通り、誰がどう見ても状況は女候の圧勝だった。無言のままゲーム盤を見つめるフェルナンドの様子を、さも面白い、とでも言うように勝者はころころと笑った。
「所詮は戦と同じ…どちらにしても女性の誉れとは言えぬこと…」
カトリーヌ殿には無用の物ぞ、とたしなめる女候に、ベアトリスは苦笑を浮かべながらも同意を示した。
「確かに…私が申し上げるのも何ですが…ご婦人が得手とするのは少々…本当でしたらば私の方が色々と教えていただきたいのですが」
「わたくしは…伯母様やベアトリス様が羨ましくてなりません。殿方と肩を並べられて戦場に立たれて…」
「武芸に秀でることが本当の強さではありませんよ」
フェルナンドの言葉に、はっとカトリーヌは顔を上げる。先程までの穏やかな表情は既に消え、厳しい面差しで盤を見つめるフェルナンドがそこにいた。
「…では今日はここまでにして…後日再戦を受けましょうぞ」
女候の視線に気付き、ベアトリスは手早く盤を片づける。女候に促されるように城へと下がっていくベアトリスを怪訝な表情で見やるフェルナンドに、カトリーヌは困ったように言った。
「フェルナンド様は…いつも何を見ておられるのです?」
そんなカトリーヌに優しく笑いかけてから、フェルナンドは失礼、と僅かに頭を下げ、彼女が座るベンチの反対側の端に腰を下ろす。足を組み、背もたれに頬杖を付きながら、フェルナンドは独白のように呟いた。
「他国との交渉でより良い条件を得るのもある意味、勝利…強さですし、逆境にあって自ら道を切り開くことも、何事にも代え難い強さです。ですが…」
深い海の色にも似た瞳を一瞬、カトリーヌに向けてから、彼は静かに続けた。
「その状況に堪え忍んでいるだけで、足掻くことを忘れてしまうのは、弱さ…敗北であると、私は思います」
自分は、敗残者にはなりたくない。…何より、あの方を敗北者としてこのまま埋もれさせたくはない…しかし…。
「では…わたくしは立派な敗北者ですね…」
深い思考の海に沈んでいこうとするフェルナンドを、カトリーヌの泣きそうな声が現実へと引き戻した。気まずい沈黙が、微風と共に両者の間に吹き抜ける。
「まだ決まっておりませんが、近々、私は出陣することになると思います」
それを嫌ってか、フェルナンドは思い出したように切り出した。驚いたようにカトリーヌがそちらを見ると、フェルナンドはやや厳しい表情で真正面を見据えていた。
「時期的には…そう、陛下のラヴェナ入城前後になるかと思います。主な兵力は皆、陛下と共にフェナシエラへと向かい、私は未だ陛下に仇なす者の掃討というとう建前でこのエルナシオンを全配下と共に離れます」
これが何を意味するか、おわかりになりますか?そう言うかのように、再びフェルナンドはカトリーヌに海色の双眸を向けた。しばらくカトリーヌは、フェルナンドの言葉を反芻しているようだったが、やがてあっと言うかのように口元に手をやった。その様子に、フェルナンドの顔に僅かに笑みが浮かぶ。
「良いですか姫君、貴女はまだ敗北者ではありません…時期、その機会はやってきます。その時動くか動かぬか、あくまでもそれは貴女ご自身が決めることであって、私がとやかく言うことではありません」
「でも…でも、もしわたくしが…お父様や、フェルナンド様は…」
「ですから、それをどうするかを決めるのは、貴女ご自身と申し上げました」
…実の父親を手に掛けた私が言うのもおかしなことですが…。言いながら、少し微笑を向けてから、フェルナンドは立ち上がり、大きく伸びをした。淡い茶色の髪が僅かに傾きかけた日の光を受け、金色と見まがうような光を振りまいた。ふと、カトリーヌの視線が、それまでフェルナンドが腰掛けていたところに停まる。
「あの…フェルナンド様…?何かが、落ちたようですわ」
カトリーヌがそれを手にするより早く、フェルナンドは金色のケースを拾い上げた。そのあまりの素早さに驚いて瞬きを返すカトリーヌに、彼は言った。
「このような汚れた物に、姫君を触れさせる訳にはいきませんので…これは香の一種で…長時間嗅がせられると、一種媚薬のような作用を及ぼすのです」
「では、何故そんな物をお持ちなんですの?」
あまりにも無邪気なその問いかけに、彼は暫し言葉を失い、やがて毒気を抜かれたように声を上げて笑った。
「…この香のせいで狂わされた者を、私は知っています。彼に、伝えてやりたいのです。お前があのようになったのは、決してお前のせいではない、と…」
だが、その場所は間違いなく戦場となる。そして、必ず敵味方として向き合うことになるだろう。お前と一戦、どうしても交えなければならない…そう、もう矢は放たれてしまったのだから…。
再び言葉を失うフェルナンドを、カトリーヌはただ見つめていることしか出来なかった。

 

第二十五章 『決別』

「何故…何故お前のような平民が候に必要とされて、私の同行が許されないんだ!!」
思い出すたび、プロイスハイム伯の嫡子、エドワルドの鋭い視線が、バルに対してこう問いかけてくる。溢れ出る感情を抑えようともせず、彼はこうも言っているようだった。
「私は…私はお前のような輩を、栄光あるパロマ候の同行者として、決して認めないからな!!」
だが、鋭い感情とは裏腹に、その目には僅かに涙が光っているようでもあった。
…自分が…どこの馬の骨ともしれない俺が…どうしてこんな所にいるんだろう…その上、必要とされている?…
一度わき上がった疑問は大きくなる一方で、頭から振り落とそうとしてもこびりついて離れることはない。
確かに、エドワルドの言うところは正しい。バルは一介の平民に過ぎず、本来であればこのようなところにいることは許される存在ではない。
それが何処でどう間違ったのか、それともどさくさに紛れてしまった結果か、ずるずるとカルロスの厚意に甘えるような形で、おそれ多くも偉大なる氷の女帝の居城に厄介になっている。
「…俺が…必要とされて…る?」
今度は口に出して、その言葉を反芻してみる。だが、彼の残していった一言は、バルの心中に一抹の陰を投げかけていた。
けれど、俺はここにいても良いのだろうか、と。
質素だが、今まで自分が使っていた物とは比べ物にならないくらい立派な寝台に横たわったまま、バルは自分にあてがわれた部屋の中をぐるりと見回す。そしてその視線は必ずある一点で停まる。
部屋の片隅には、重いと思いながらも手放せずにいた、顔も知らない父親の形見の剣が無造作に立てかけられていた。

突然のノックの音に、カルロスは慌てて顔を上げた。
最近、どうもおかしい。眠いというわけではないのだが、ふと意識が飛んでしまうことがたびたびある。やはりこの逃避行で多少なりとも疲れが出ているのかもしれない。そんなことを想いながら、彼は扉に向かい姿勢を正した。
「殿下、失礼します。よろしいでしょうか?」
入って来たのは、外見も性格も、得意とする活躍の分野すらも全く正反対の、だがカルロスにとってかけがえのない二人の忠臣だった。
「構わないよ…ヴァルキューレ殿はもう出立されたのかな?」
何気ないカルロスの言葉に、オルランドは意味ありげな含み笑いを浮かべながら、隣に立つホセを小突く。僅かに赤面しつつ頷くホセに笑みを向けてから、カルロスはふと机上に目を落とした。その上には何通かの書状が無秩序に散らばっている。目敏くそれに気付いたオルランドが、表情を改めて口を開く。
「…正直、如何ですか?」
「予想通り、かな。それなりの見返りを露骨に要求してきたり、何か思うところがあるのが見え見えな物もあるしね」
苦笑を浮かべるカルロスが差し出す書状を受け取り、ざっと目を通しながら、オルランドは僅かに皮肉な笑みを浮かべて見せた。
「…ま、人間よほどの聖人君子でもない限り、只では動かない物ですから…」
「…じゃあ、そう言うオルランドもそうなのか?」
冗談めかしたカルロスの一言に咳払いをすると、ばつが悪そうにオルランドは手にしていた物をカルロスに返した。受け取りながら、カルロスはそれまで口を挟むことなくやりとりを見つめていたホセに、徐に向き直った。
「所で…突然なんだけれど…」
急に話を振られ、ホセは慌てて姿勢を正そうとするが、まだ傷が響くのか僅かに顔をしかめる。楽にしていて良いよ、と付け加えてから、少し固い表情で、カルロスは言葉を継いだ。
「…バルを…どう思う?」
「…バルを、ですか…?」
予想だにしない主君の問いかけに、ホセは数度、瞬きを返す。やや時間をおいてから、彼は言葉を選ぶようにゆっくりとその問に答えた。
「始めは…あの森の中で会ったときは、それこそ何を考えているのか解らない粗野な印象を受けたのですが…」
「今は?」
「今では、…そうですね、なんと言ったら良いか解らないのですが…そう、戦場で安心して背後を任せられる、というか…そう言う感じですね」
それは、彼ら騎士達にとっては、最高の賛辞と言っても良かった。満足する答えを得たからか、いつも以上に穏やかに笑うカルロスに、でも何故、と言いたげなホセだったが、当のカルロスは無言で只ほほえむだけだった。

やはり城の中というのは勝手が違う。人目に付きたくないと言う心理が働くせいもあって、ただでさえ迷う城内で、バルは完全に方向を見失っていた。
「そんな格好で、何処へ行く気だ?」
険のある声が背後から投げかけられる。よよりにもよって一番遭遇したくない人物に見つかってしまったようだ。観念しながらバルは振り向く。果たしてそこには、不機嫌そうなエドワルドが立っていた。
「あんたが思っているとおり、俺は偉い人に対する口の効き方を知らない、ただの一般人だ」
全く臆することもなく見返してくるバルの視線に、エドワルドは僅かに引く。だが、それを全く気にする出もなく、いつものぶっきらぼうな口調でバルは続けた。
「俺だってそのことは良くわかってる。だから、ここを出ていく」
「な…!!」
複雑な表情が混じり合って一瞬エドワルドの顔に浮かんで消えた。その中に歓喜のそれを見て取って、バルはややほっとしたような奇妙な気分に陥った。そしてふと、あることを思い立った。がちゃり、と重い音が、廊下に響いた。何事か、と目を丸くするエドワルドに、バルは背負っていた剣を差し出した。
「これを、あんたにやる」
「やる…って、どういうことだ?」
戸惑いながらもそれを受け取ったエドワルドは、みすぼらしい外見の中に隠された剣の持つ威圧感を感じ取り、訝しげにバルを見やった。
「元々、親父の形見だ。親父は騎士だったらしいけれど、俺はそうじゃない。それならちゃんと使える人の所にあった方が良い」
唖然とするエドワルドに、じゃあな、と言い残すと、バルはくるりと背を向け、去っていった。

「如何なさいました?」
テラスに立ち、ぼんやりと彼方を見やるエドワルドに、カルロスは声をかけた。かけられた側は、心ここにあらずと言った用な顔で、こちらを振り返る。その手に握られていた物を認め、カルロスは僅かに色を失った。
「それは…バルの…」
「私に、やる、と言い残して、…先程…」
なんてことだ、小さく呟くと、カルロスはそれまでエドワルドが見つめていた方向に視線を巡らす。だが深い森林に遮られて求める姿を見つけることは不可能に近かった。
「私たちにとって、剣が何を意味するか、御存知ですよね?」
何時になく鋭いカルロスの口調に、エドワルドは数度、頷く。
「それをおいていく、と言うことも、何を意味するか…もちろん知っているはずですよね?」
どこまでも続く森林と山脈とを見つめる、青ざめたカルロスの顔を、力のない夕暮れの光が僅かに染めていた…。

 

第二十六章 『決断』

開け放たれた窓から、人馬の作り出す独特のざわめき、そしてファンファーレに備えた軍楽隊の音あわせが風に乗って入ってくる。聞くでもなくそれらに耳を傾けていたフェルナンドであったが、ふと扉を叩く音に現実に引き戻された。
「フェルナンド様、皆、既にお集まりになっています。イノサン陛下がお出ましになる前に、お早く…」
「…良い茶番劇だな」
慌てふためいて駆け込んできた『戦女神』ベアトリスにちらりと視線を向けてから、フェルナンドは再び窓の外に目をやり、可笑しくて仕方がないとでも言うように声を立てて笑った。
「そのようなことをしている場合ではありません。お支度がお済みでしたらお早く…」
あくまでも忠実な臣下たる態度を崩そうとしないベアトリス。そんな彼女にフェルナンドはようやく笑いを納め、視線を動かすことなく低い声で呟いた。
「…本来ならば、私がその立場にいなければならなかったのだが、な」
「フェルナンド…様…?」
主が何を言おうとしているのか咄嗟に理解できず、ベアトリスは戸惑ったように言い返す。だが、思い当たることがあったのか、後ろ手に扉を静かに閉めながら僅かに青ざめた顔で恐る恐るとでも言うように切り出した。
「…御存知…だったのですか…?」
振り返るフェルナンドの顔には、自嘲に似た笑みが浮かんでいる。それが答え全てと言って良かった。
「アラゴン候は、怨んでも怨みきれない存在だろう。都合の悪いことは全て、貴女の義父上に…カプア卿に押しつけて、自分は傷つくことなく…」
「フェルナンド様…!」
「その汚れた血と家柄を、私は一身に背負ってしまった。それでもなお、私についてきてくれますか?…姉上」
「フェルナンド様、お止め下さい!!」
何時になく大きな、そして切羽詰まったベアトリスの声に、フェルナンドは驚いたように数度瞬く。そのフェルナンドの視線を、ベアトリスは穏やかな笑みさえ浮かべながら真正面から受け止めた。
「私は、歴代アラゴン候に仕えるカプアの名を受け継ぐ物です。それ以外の何者でもありません。願わくば最期の瞬間まで、貴方と共に有りたい、そう願っております」
あまりにも清々しいベアトリスの言葉に、フェルナンドは目を伏せた。
今彼女が口にした言葉は、紛れもない本心だろう。そして、自分についてきた多くの兵や騎士達も、多かれ少なかれ彼を信じ、同じような思いを抱いているだろう。
果たして、自分が行おうとしていることは、彼ら全ての思いを賭けてなお、なすべき物なのだろうか…。
迷いにも似た感情はこの戦に入ってから幾度となく彼を捉えた。しかし、そのたび彼はその感情を振り切ってただひたすら前へと進んできた。
けれど、今度は今までとは違う。ここで踏み出せばもう、あとへ戻ることはできない。事実を知らない…知らせていない彼らを、巻き込むことは、果たして…。
「…例えそれが、地の底に続く道であっても、です」
そんなフェルナンドの葛藤に答えるようなベアトリスの言葉が、心に痛い。けれど現に、彼は父親たる大将軍アラゴン候をその手に掛け、フェナシエラの主力の殆どと言って良いほどの軍勢を手中に収め長年の宿敵であるはずのサヴォと手を結んだ。そんな彼が、一体何を望んでいるのか、恐らく目の前にいるベアトリスすら知るはずもないだろう。いや、配下の物の中には、本気でフェルナンドの即位を望む者すらいる。
二重の意味で、彼らを裏切っているのではないか。
けれど、仕方のないことなのだ。あの方のためには…。
フェルナンドは再び窓の外に視線を投げかけた。相変わらずイノサン5世のラベナ出立の仰々しい式典の準備は慌ただしく続いている。
「自らの首を絞めようとしていることに、まだ気が付かぬようだな」
まるで本気で、フェナシエラ国民が自分を歓迎するとでも思っているのか、そう言うフェルナンドは、いつもの冷静さを取り戻しているかのように見え、ベアトリスの顔にやや安堵の表情が浮かぶ。
「ですが…大した自信ですね。この時期に全軍を上げてラベナに入城するとは…」
「だから茶番と言ったのさ」
皮肉な笑みを浮かべながらフェルナンドは嘯く。そう、イノサン5世は適当に煽てて下手に出てやればその気になる、いわば御しやすい存在であった。問題は…。
「あとは、女候からアプル通過の許可が頂けるかどうか、だな」
未だ不安が拭い去れぬように見つめるベアトリスに、心配するな、と声をかけてから、フェルナンドは肩からマントを羽織った。
「我々も出陣だ。…今度は少々、厳しい戦いになるかもしれないがな」
「…アプルを通過、するのですか?一体どこを…」
振り向きもせず歩み始めたフェルナンドを慌てて追いかけながら、ベアトリスは問う。長い回廊を進む間、フェルナンドは無言のまま真正面を見据えていたが、やがて中庭にさしかかったところで徐に口を開いた。
「フェナアプルを陥とす」
簡潔この上ない主の言葉に、ベアトリスは思わず足を止めた。フェナアプル…今は消息不明となっているカルロス4世の異母兄ロドルフォが治める地であり、そして何より、カルロスとホセがフェナシエラで最後にサヴォ軍と遭遇が確認されたところでもあった。サヴォ、そしてプロイスヴェメ両国境に近いとはいえ、戦略的に見てもさして価値があるようには見えない場所である。
フェナアプルの外れアルタ地方に何故。その知らせをはじめて聞いたとき、ベアトリスはそんなことを思った。だがその忘れかけていた地名を、再び彼女の主は口にした。一体、フェナアプルに何があるのだろうか。その謎は、程なく朧気ながら輪郭を表した。

既に高位高官らが揃い踏みする中を、外見上は悪びれることなくフェルナンドは進んでいく。定められた場所に腰を下ろす彼に、前列のカトリーヌはややはにかんだような視線を送っている。
やがてイノサン5世のフェナシエラ出立を祝す式典は仰々しく、滞りなく執り行われた。その間、全く表情を動かすことなく『偉大なる王』の背中を見つめていたフェルナンドは、式典が終わるや否や居並ぶ人々を振り払うかのように今日の主役の元へと歩み寄った。
「陛下…道中是非ともお気をつけて」
「おお、フェルナンド殿か。留守中、そなたには色々と…」
「そのことでございますが陛下、折り入ってお願いがございます」
訝しげに口を閉ざすイノサン5世に、フェルナンドは臆することなく言い放った。
「なにとぞ、出陣の許可を」
その声はさして大きな物ではなかった。だが、まだ見ぬ宝の山を目前に浮かれた気分に浸っていた国王の気持ちを冷やすのには充分な物であった。そして、事前に聞き及んでいたカトリーヌは僅かに青ざめた顔で、両者を見やっている。
「出陣とは…また急な…。何ぞ火急のことでも?」
ことの重大さに気付いたのか、アプル女候が鋭い視線をフェルナンドに投げかける。その視線を彼は真正面から受け止めた。
「は…陛下に仇なす者を、急遽討ち果たさなければなりませぬ」
「余に仇なす者だと?それは何者だ?」
だが、その問いかけには答えず、フェルナンドは女候を見据えたまま言った。
「つきましては我が配下がアプルを通過することをお許し頂きたいのです」
「な…」
ぱちん、と女候が手にしていた扇をならす。豪奢な装いが不似合いなほど落ち着きなく、至高の冠を頂く者は自らの額の汗を拭った。
「陛下の治世の安泰のためには、まずはフェナシエラ王室の残党を根絶やしにしなければなりませぬ。幸い、パロマ候はヴェメに逃れ、当分はこちらに手出しはできぬでしょう。されど、未だフェナシエラ領内に、王室の流れを汲む者がいれば、国民はかの者を担ぎ出す危険がございます。そうなる前に…」
「して…して、かの者とは一体…一体どこにおるのだ?アプルを通り抜けると言ったが…」
「我が目的地はフェナアプルにございます」
ぱちん。再び女候が扇を鳴らす音が響く。目に見えてイノサン5世の顔は、蒼白となった。
「ま…まさか…フェナアプル候が…」
「いいえ、私が申し上げているのは、ロドルフォ殿下ではございません」
ロドルフォ殿は、お前が殺したんだろう?お前がまだ即位する前、アラゴン候フェリペをそそのかして…。頭を垂れたまま、心中でフェルナンドは目の前にいるイノサン5世を罵った。その顔に浮かぶ薄笑いに気付く者は無論いない。
「私が申し上げているのは、陛下。…フェナシエラの嫡流にございます…」
そう、フェナアプル候ロドルフォの子として育てられた、紛れもないカルロス4世の嫡子。長らく子に恵まれなかったカルロス4世に、ロドルフォが自らの子を差し出すことを秘密裏に約束した後その懐妊が明らかとなり、抹殺されそうになった王子。彼をこの世から消さぬ限り、『唯一無二の血統』を重んじるカルロスは進んで王位につくことはない。下手をすれば、会ったこともないその『従弟』を探しだし、王位を譲ろうとさえするだろう。
一度剣を捧げ、忠誠を誓ったカルロスを王位に付ける。そのためには、いかなる汚名を着せられようとも…。
もはや彼に迷いはなかった。凍り付いたような海色の瞳で、フェルナンドはイノサン5世を見据える。そのあまりの威圧感に飲まれたのか、イノサン5世は僅かに後ずさりながら良きに計らえ、とようやく小声で言うのが精一杯だった。
「では、早速に出陣の準備に取りかかりたく思います」
再びフェルナンドは深々と頭を下げる。背後からのベアトリスの声も、もはや彼の耳には入ってはいなかった。

…鷲は再び、その翼を広げた。
自ら、傷つくために。

 

第3部 『決断〜金色の鷲』終

万一ご意見、ご感想などありましたら
sorah04@hotmail.comまでおねがいいたします。

sorahiroi@henkousei

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送