『KI・KO・E・NA・I・O・TO』

 

季節は夏を過ぎ、冬へと向かう、一年を通して一番さわやかな時期。
けれど、自分たちを取り囲む空気…というか、情勢は、次第に焦臭いものになっていた。
恐らく、この冬が終わる頃には休戦協定は破られ、東部戦線は再び血に染まることになるだろう。…何も知らされることのない善良な一般市民でも、そのくらいのことは解っている。
政府は予備役軍人の召集を始めているし、今年は士官学校の募集人員が数年ぶりに増員されたらしい。大学関連の予算は既に決まってしまっているから、うちの学科の助手や研究員が何人か減らされたと、教授がぼやいていたっけ。
芸術系にしては授業料が安いから。そんな不純な動機から逆立ちする思いでこの国立芸術大学に入ったのに、肝心なその値上げの話が議会で審議されているらしい。いや、値上げくらいならまだ良い。この緊迫した状況下では、音楽だの絵画だのという代物は無駄なだけだ、と、学校自体を休校してしまえ、という話も出ているらしい。めちゃくちゃだ。
そんなこんなで、近づいて欲しくもない戦争へのカウントダウンが進む中、少々肩身の狭い思いを感じながら僕は昼下がりの校庭を歩いていた。早くも身の危険を感じ姿を消す学生も少なくない中、僕は逃げることもできず、かといって自分の才能に満足する訳でもなく、悶々とした日々を送っていた。
そのすっかり人気が少なくなった校庭で、僕はすぐ見知った顔を見つけだすことが出来た。そう、彼こそが、僕の第一の挫折の原因だった。
入学して初めて彼の演奏を聴いたとき、僕は自分の才能に限界を感じた。僕のこれまでの努力を持ってしてもとうてい及ばないほどの技術と表現力とを、労せずして彼は持っていたのである。にもかかわらず彼は気さくな人柄をも持ち合わせており、程なく友人となって直接聞くところに寄ると、僕が完全に譜読みを終えるまでゆうに数ヶ月をかけた『超絶技巧練習曲集』を、彼はものの数週間で終えた、という。打ちのめされると同時に、僕は彼の才能の虜となった。
敗北を認めてしまえばこれ以上楽なことはない。後は集団レッスンの度に超一流の演奏に身をゆだねることが出来るのだから。けれど、それほどまでの才能を持ちながら、彼の興味は他の方向に向かい始めていた。
「やあ」
僕の姿を見つけると、彼は片手を上げた。羨ましくなるほど細くて繊細な指を持っている。だが、その手に握られていたのは何の変哲もない無骨なペンだった。苦笑を浮かべながら僕は彼の隣に座る。テーブルの上には数枚の紙が散らばっていた。そのうちの一枚を僕は手に取り、書かれている文字に視線を走らせる。それから僕は彼の顔をまじまじと見つめた。何でこんなことをやっているのか、と言わんばかりに。
そう。彼がどっぷりとはまっているのは、文字や演奏など芸術による平和啓発…早い話が学生運動だった。
「次の機関誌の原稿なんだけど、どうかな」
そんな僕の内心など全く知る由もなく、彼は僕にいつものように話しかけてきた。
愛こそすべて。今こそ平和を叫ぼう。等々。でかでかと縁取りされた文字が、白い紙の上に踊っている。僕にあれだけの才能があれば、こんな下らないことはしていないのに、勿体ない。そう言いたくても言い出せずに、僕は小さく溜息をついて手にしていた原稿を彼に返した。
「どうかなって…。少しストレートすぎるんじゃないかなあ」
「やっぱりねえ…困ったなあ」
口では困ったと言いながら、でも心底楽しそうに彼は受け取った原稿を、頬杖を付きながら眺める。そんな彼を横目で見やる僕に、彼は何気ない口調で言った。
「それより、あの噂、聞いた?」
「噂?何の?」
「徴兵免除が無くなるって話。俺らだけ」
そう。僕ら国立の大学生は、この国では一定年齢になると男性なら誰もが科せられる兵役が免除されている。学費は安いし、兵役につかなくても良いという理由から、国立大学はこういう不安定なご時世には大人気となる訳だが、その最高学府に議会はついにメスを入れようとしている。いわば『道楽』の学問である文学系、芸術系の学生を、一般よりも短い期間ながら兵役に付けよう、というのである。たまった物ではない。
「税金で学ばして貰ってるのは皆一緒じゃないか。不公平だな。それに僕らでも充分役に立ってると思うけどな」
「戦争を正当化する文章を書いたり、軍歌を演奏したり?俺はごめんだね」
そう。こういう所まで彼は根っからの『芸術家』なのだ。自分のスタイル以外には、何事があっても妥協しない。この姿勢が彼の才能をつぶしはしないか。僕は正直不安だった。
「そうだ、今度集会…演奏会をやるんだ。そんな大それたものじゃないけど、俺らは俺らなりに出来ることをしていくつもりなんだ」
良ければ君もどうだい?そう言う彼に、僕は首を横に振った。
僕は彼の才能を認めていたし、彼のしていることに筋は通っていると思う。けれど、僕は彼らと行動を共にする気にはなれなかった。いや、正確に言うとそれだけの勇気がなかった。しかし彼は僕の言葉を気にするでもなく、テーブルに散らばる原稿用紙を片付けながら柔らかく笑った。
「了承。じゃ、もし気が向いたら来てくれよ。サクラでも構わないからさ…」
それが僕が彼と交わした最後の会話だった。

数日後、彼はぱったりと学校から姿を消した。彼が所属していたグループが公安の摘発を受けたらしい。彼はその場には居合わせなかったらしいが、イモズル式に逮捕されたらしい。
その後、僕ら学生は、ある文章に署名捺印させられた。国民の意欲を高める芸術活動をするという宣誓書…早い話が戦争の片棒を担ぎますという誓約書だ。
徴兵免除をもぎ取り、予算の縮小を回避するための起死回生の奇策だったらしいが、僕は情けなくも魂を売ったのだ。結果として。

それから何度か、僕は戦意高揚の為の式典で演奏にかり出され、軍歌調の勇ましい曲を何曲か作った(採用されたかどうかは不明だが)。しかし幸い、奇跡的に東方戦線は開かれることはなかった。きな臭さは残ったものの、表面的には平和が保たれたのだ。
そんなある日、僕のもとに差出人の書かれていない大きな分厚い封筒が届いた。不審に思いながらも開いてみると、出てきたのは楽譜の束だった。繊細に、そして緻密に書き込まれた音符の群に、僕は見覚えがあった。…彼だ。僕は食い入るように五線譜を見つめた。
その曲は、一言で言えば非常に難しいものだった。『超絶技巧練習曲集』など足下にも及ばない位のものだった。だけど…自分では到底演奏する事は出来ないのだが、音符から僕は、彼が言いたかったこと、主張しようとしたことが、痛い程理解できた。
一通り目を通し、僕は楽譜を机の上に置きそして大きく溜息をついた。生きるためとはいえ、国に魂を売った僕には、技術以前に彼のこの曲を演奏する資格はない。けれど、どうして彼はそんな僕に、この楽譜を送ってきたのだろうか。
再び僕は楽譜に目を落とす。聞こえるはずのない旋律が、僕の耳に響いてくる。
いたたまれなくなって僕は楽譜を封筒にもどした。でも聞こえない音が、僕の耳にこびりついて離れない。
いつの日か、実際にこの曲を僕は演奏することが出来るようになるのだろうか。そして、彼はどうしてこの楽譜を僕に送ろうと思ったのだろうか…。
謎を残した楽譜を僕は再び手に取り、書棚に納めた。
彼が僕に、演奏することを許してくれるその日まで…。

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