亮月〜liang yue〜

 

 

夕闇に染まる東の空に、気の早い満月がぽっかりと浮かんでいる。
赤紫色の中に白っぽく光るその姿は、なかなか綺麗かもしれない。そして、少し異様でもあるかもしれない。
「そんなところでぼんやりしてると車にひかれるよ」
背後から声をかけられて、私は身体ごと振り返った。いつの間にかそこには、私の数少ない友人の一人が立っていた。
「とっくに信号変わってるじゃん」
言いながら彼女は私を追い越して、ずんずん横断歩道を渡っていく。見えない手で引きずられるように、私は点滅しはじめる信号に急かされるようにその跡を追った。

彼女とは幸か所謂中高一貫教育の学校で、中学入学から高校卒業間近の現在に至るまで続いている腐れ縁である。
私の友人になってしまったのは彼女にとって幸か不幸かと言う問題は置いておいて、少なくとも進学校と言われる学校の中で、勉強も出来ず、成績も悪く、性格的にもかなり問題があるため、かなり周囲から浮いてしまっている私にとっては、気の置けない、貴重な存在であった。
そして何より、彼女には絶対かなわない、そう思わずにはいられない存在でもあった。
「でも、何で月なんて見てたの?」
そんな劣等感に凝り固まった私の心中を知ってか知らずか、どこか脳天気な彼女の声が私を現実へと引き戻す。ややその闇を深くした青紫色の空に、先程よりも黄色みを増した月が、私たちを追いかけるように浮かんでいた。
「いや、おいしそうだなあと思って」
適当にはぐらかしておいてから私はまた月を見やる。そんな私にちらりと視線を向けてからふと、彼女はこんなことを呟いた。
「月って、出来損ないなんだって」
「え?」
思わず私は彼女の顔を見上げる(悔しいことだが、その身長差は10センチほどあったりする)。だが当の彼女は物事を考えているのか考えていないのか良くわからない、いわばどこか抜けたような笑みを浮かべていた。
「大きさがさ、他の惑星よか段違いにでかいんだって。だから惑星の出来損ないが衛星になったんじゃないかって」
けれど、その言葉は、僅かに私に突き刺さってきた。
「…結局一人前じゃない訳か。あんなに光ってるのも全部太陽のお陰だし」
同病相哀れんでいるような気がして、私は何だか哀しかった。

‥‥……━★●★━……‥‥

季節は九月、夏休みあけ直後。
世間で言うところの『受験生』である私たちにとって、この時期は最後の追い込みの時期である。と同時に、最後のメインイベントである運動会を間近に控えた時期でもある。
こう言うとき、何故か急に燃えだして、周囲を巻き込もうとする奴はどこにでも必ずいる。今年は最終学年は自由参加の夏休み林間学校が人数不足で流れてしまったためか、溜まった鬱憤をはらすかのように、一部の盛り上がりは少々以上だった。
そして、それを利用して、周囲を出し抜こうとする奴も必ずいる。周りの人間をお祭り騒ぎに叩き込んでおいてから、自分は適当に顔だけ出して裏では一人しっかり勉強して、優勝でもしたときには自分がいかにも尽力したかのような顔をして、入試の面接の時にはちゃっかり話のネタに使うのだろう。
みんなで協力して、立派に成果を出すことが出来ました。
とか言って。
けれど、自慢ではないが私は要領が悪い。加えて融通も利かない。
結局は練習を適当にさぼることも出来ず、すぐ後に控えている中間テストは玉砕するのだろう。まともにやっていて出来ないのが、いつも以上に勉強していないのに出来るはずがない。
いや、もしかしたら、勉強をしたくないから、馬鹿馬鹿しいと思いつつも練習をさぼらないのかもしれない。出来が悪かったらこれを言い訳にしようとしているのかもしれない。
第一、真面目に練習に出てみたとしても、運動音痴の私は、さして戦力にはなりはしない。単なる頭数あわせのお荷物だ。
…何とも矛盾した話である。
そんなこんなで、またしても下校時間は薄暗い時間になっている。これから真っ直ぐに家に帰っても、食事してテレビ見て、適当に宿題やって終わりだ(もっとも時間があったとしても予習復習なんてやったこともないが)。
全く役に立たない自己分析を終え、私は何となく上空を見上げた。この間とは違って、陸橋の上に、半分の月が申し訳なさそうに浮かんでいた。昔は煙突の煙が煙たいなんて歌があったが、さしずめ今は排気ガスが煙たいんだろう、そう思いたくなるほどの渋滞だった。
…月って、出来損ないなんだって…
ふと、先日の会話が脳裏に甦る。あの時は完璧とは言わないまでもかなりまん丸に近い状態だったはずだ。満月でも出来損ないなら、半月なら、いや、三日月とかだったら出来損ない以下かよ?それ以前に新月だったらどうなる?
下らない堂々巡りをはじめる思考とは裏腹に、月は相変わらず申し訳なさそうにこちらを照らしていた。

‥‥……━★●★━……‥‥

内輪の馬鹿騒ぎは、好評のうちに幕を閉じた。メインイベントが終わった後には、何とも言えないむなしさだけが残る。いや、馬鹿騒ぎという現実逃避の手段が対になくなり、焦りとも何ともつかない、そんな独特な空気が次第に流れはじめている。
次第に秋から冬へ…いよいよ事件シーズン本番を間際に控え、それまでの和気藹々としたムードが次第に薄まり、どこかぎすぎすした重苦しさが支配しはじめる。そろそろ一番早い推薦の結果もはっきりする頃だ。出し抜いた奴らが笑う頃だ。
そんな中、私のクラスはだんだん欠席者が目に見えて増えてきた。他の所はいざ知らず、私のいるクラスだけ。
局地的に風邪がはやった、と言うわけではない。いわば学校側から見捨てられた『落ちこぼれ』クラスの面々は、おざなりな指導者側に早々に見切りを付け、出席日数と相談しながら本格的に予備校通いをはじめたのである。
ここで授業受けてるよりも、塾の自習室でやってる方が全然良いよね…
先生もあたしたちみたいに見込みのない生徒には、まともに教えてくれないし、塾の先生のが良いよ…
遠くの方で、誰かがそんなことを言っているのを、そういえば小耳に挟んだような気もする。
そんな名ばかりの級友たちの行動を、眉根を寄せつつも、どこか羨ましく私は思っていた。
私には、良くも悪くも、彼女たちのような度胸はない。根性もない。向上心(?)も無い。
単なる臆病者だ。ただの負け犬だ。
「何々?原始女性は太陽であった、現在女性は月である?」
不意な至近距離からの声に私は顔を上げた。相変わらず神出鬼没な友人が、丁度机の上に広げっぱなしになっていた私の教科書を読み上げたのである。種類は日本史、場所は近代史。私があまり好きではない所である。
「…やっぱり、出来損ないなのかな」
再び、先日の彼女の言葉がオーバーラップする。別に平塚らいてうは、女性が出来損ないだ、と言いたかった訳ではないだろうけど。
「いや、それなりに月でも役に立っているとは思うけどね」
思いもかけない返答に、私は彼女をまじまじと見つめる。
「それに太陽が必ずいつでも役に立っている訳じゃないし」
「何?学説変えたの?」
「いや、っつー訳じゃないけど…真夏の炎天下に太陽、要らないって思うじゃん」
「納得」
だから私は彼女にはかなわない。
いつもながらそう思わずにはいられなかった。

‥‥……━★●★━……‥‥

センター試験が終わると同時に、私たちは家庭学習という名目の長い休みに入った。
2日続けて受験に出かけ、一週間あけてまた試験、その間に一番最初の結果発表、と言うような、落ち着かない2ヶ月が過ぎた。だが、学校には行かない物の、一つ試験が終われば担任に報告し、もしその日に発表があればその結果を急かされる、と言うように、決してその束縛が無くなった訳ではなかった。
とても目も当てられない成績だった私も、運が良かったのか、とある女子大に滑り込むことが出来た。
それを報告したときの、信じられない、と言うような担任の声が、私の劣等感をかき立ててくれるようで、そしてそんなことでまだ落ち込んでしまう私自身が情けなくて、少しばかりの安堵感とうれしさは消し飛んでしまった。
3月。ご多分に漏れず、殆どの同級生、そして先生方が『美しい』涙を流しているにもかかわらず、私は無感動のまま、卒業式に参加していた。
別れるのが哀しい友人も、他の面々に比べれば遙かに少ない。その分、涙も流れなかったのかもしれない。最後のホームルーム、皆がしんみりとした表情をしている中、私はどこかようやく終わった、と言うような、安堵にも似た開放感に浸っていた。
最後の下校、これで文字通り制服ともこの学校ともおさらばできる。担任たちの思い出話にも似た訓話が長引いたため、すっかり辺りは暗くなってしまっていた。
同級生たちは一端退けた後、秘密裏に進められてきていた某所での卒業パーティーにかなりの数が出席するらしい。一応、私の所にも出欠確認の紙が回ってきてはいたのだが、参加する気にはなれなかった。何より、周りは殆ど私より『優秀』な人ばかりなのだ。そんなところに入っていってみても惨めな気持ちになるだけだ。最後の日くらい、そんな思いはしたくない。
相変わらず被害妄想そのまんまの思考に囚われ、一人駅へと向かう私に声をかけたのは、予想に違わす、やはり彼女だった。
「やっと終わったよ。長かったね」
「そだね」
ぶっきらぼうに私は言い返す。何のことはない、彼女も私よりも遙かに知名度のある大学への進学を決めている。気付かれないように溜息をついてから、彼女から視線を逸らすように私は上空を見上げた。投げ上げられた視線の先には、丸い月がぽっかりと浮かんでいた。
「月にいるのは、ウサギだけじゃ無いんだって」
「は?」
思わず私は彼女の顔を見上げる。
「国によってさ、ウサギだったり、蟹だったり、カラスだったりするらしいよ」
「…へえ…」
妙なところで、彼女は博学である。しかし、それにしてもウサギに蟹に、カラスと来るか。動物園じゃあるまいし。どこか冷めた気持ちで再び上空を見上げる私に話すと言うよりは、独り言に近い彼女の声が、続く。
「月は、最後の理想郷かもしれないね」
「ウサギと蟹とカラスと一緒が?」
私は少し茶化し気味に答える。だが彼女はそれには乗ってこなかった。
「そうじゃなくてさ、取りあえず今のところは現物を間近に見ることはないじゃない?」
手元にない物をいくら理想化しても、問題は起きないし。どこかいつもとは違う、固い口調で彼女は続けた。私も前方の月を見上げる。
「じゃあ、月面基地とか出来たら、理想郷はなくなっちゃうね」
「そん時はその時だよ」
言いながら、彼女は笑った。

それからしばらく、4月が来て、私もいっぱしの大学生になれた。
相変わらず、小心者の私は、アルバイトもせず(正確に言うとやる勇気もなく)、講義をさぼることもなく(さぼる度胸もなく)、毎日過ごしていた。
そんな中、風の噂で、彼女が学校を辞めたことを聞いた。どうやら『有名大学』は、彼女にとって『月』に似た理想郷だったのかもしれない。理想郷を実際に目の前にして、彼女はたぶん、「その時はその時だ」と思ったのかもしれない。
じゃあ、私にとっての『月』は、一体どこなんだろう。

未だに私は、私にとっての『月』を、見つけられずにいる。

‥‥……━★全てを諦めていた、あのころの私へ★━……‥‥

亮月 終

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