『夜明けの詩 月夜の涙』
 

第十六章 『ミネルヴァの降臨』

「…貴女が私たちに対して、どのような思いを抱いているか、少なからず理解しているつもりではいます。でも、我々の中にも、そのような者達を許せぬ者もいる、それをご理解いただきたいのです」
言いながら女性は自信に満ちた笑みを浮かべる。彼女が身にまとっているのは僅かに細工の施された白銀色の甲冑である。それはお飾りで陣頭に立つ者のために作られたそれではなく、自ら剣を持ち先頭に立つ者のために作られた実戦仕様の物であった。その時点でシシィは、自分の目の前に現れたのはフェナシエラの女性騎士、『カプアのミネルヴァ』と畏れられるベアトリス=デ・カプアであることを理解した。
「無論、このような行動にでたことは心よりお詫びいたします。ですが…」
「…貴様らは、いつもそうだ。力で全て、事足りると思っている」
容赦ないシシィの言葉に、ベアトリスは苦笑で応えた。
「事前に使者を立てたはずですが、受け入れては頂けなかったようですので…」
「ならば力ずくで、と言うことか。…一介の傭兵団長相手に、名高きミネルヴァ殿が何故そこまでする必要がある?」
「…一介の傭兵団長などではないことを、貴女ご自身がもっとも御存知なはずではありません?」
にこやかに笑いながらもベアトリスはやんわりと、だが、確実に急所を突いてくる。その目は刺すような鋭さでシシィを見つめている。言葉を交わしてはいけない。そう察したときは既に手遅れだった。恐らく女神は彼女のもっとも知られたくない『弱点』を掴んでいるのだろう。ついにその視線を受け止めかねて、シシィは視線を逸らした。
「…私は…楽園の騎士の長…それ以外の何者でもない」
「認めるのが、そんなに恐ろしいのですか?…貴女ご自身が、お仲間がもっとも忌み嫌う者…憎悪の対象の張本人であることを…」
だが、ベアトリスの言葉は、外堀を完全に埋めてしまう前に突然の闖入者によって遮られた。本陣を取り巻く哨戒兵の間にざわめきともどよめきともつかない声が広がる。そして、伝令が転がり込むように彼女の前に姿を現した。
「何事だ?」
苛立ちながらベアトリスは立ち上がる。気の弱い者であれば震え上がるであろうその迫力にも、だが駆け込んできた伝令には何ら感慨も与えたようではなかった。いや、それを上回る恐怖に彼は既に囚われていたのである。
「て…敵襲…!!既に中堅まで突破されています!」
その瞬間、それまで自信に満ちていたベアトリスが僅かに青ざめたように感じられた。だが一呼吸置き、すぐに冷静さを取り戻すと、落ち着き払った声で彼女は言った。
「黄金の鷲第一の精鋭に盾突く愚か者が…女帝の配下か?それとも楽園の騎士がヴァルキューレを取り戻しに来たのか?」
だが、伝令は凍り付いた表情のまま首を横に振る。不審げに身を乗り出すベアトリスに対し、彼はかすれる声で告げた。
「いえ…そのどちらでもありません…ですが…」
「はっきり言え!!」
「敵は僅か一人…あれは…」
彼が言い終わる前に、至近距離で鬨の声が上がり、次の瞬間には断末魔の絶叫に変わった。一瞬の沈黙の後、周囲を覆う天幕が外側から血に染まった。固唾をのんで入口を見つめる彼らの前に、全身を真紅に染めた来訪者がついに姿を現した。肩で息をしながら獲物を見据えるような鋭い視線を投げかける突然の招かれざる客を、ベアトリスはやや強張った笑みで迎え入れた。
「相変わらず剣を手にすると狂気に飲み込まれてしまうようだな、アラゴンの黒豹殿は…」
「そのようなことを議論するためにここに来たのではない。ミネルヴァ殿」
かつては同じ旗の元に集い戦った両者の間には、再会を喜び合う言葉はない。戦場のそれに似た張りつめた空気だけが流れる。何度も死線を乗り越えたことのあるシシィでさえ言葉を発することすら出来ずに、魅入られたように立ちつくしている。痛いくらいの緊張感の中で、先にそれを遮ったのはホセの方だった。
「何故…貴女ともあろう方が…。貴女ならばフェルナンド様を…兄上を止めることも出来たでしょう…それなのに…」
「私はフェルナンド=デ・アラゴン様にお仕えする一騎士。主命に従うのは当然のこと。…それに」
一度言葉を切り、ベアトリスは僅かに視線を落とした。そして、かろうじて聞こえる程度の低い声で呟く。
「あの方が蜂起を決意された理由なら、君の方が良く知っているはずだ」
果たしてその声が届いているか、無言のままホセはベアトリスを見据えている。両者を代わる代わる見つめていたシシィの視線がある一点で止まった。鬼神の如く立ちつくしているホセの右手には、赤黒い血糊のついた剣が握られている。だが、その左手は、脇腹のあたりを押さえている。その部分を染める朱は、明らかに他の部分とは違っている。鮮やかな朱の色は、次第にその面積を広げているようだった。
「さすがの猛将も、どうやら無謀なことをしたようだな」
どうやらベアトリスもその異変に気が付いたらしい。その顔には苦笑にも似た表情が浮かんでいた。その間にもホセの息は荒く、早くなっていく。このままでは危険だ。そう思った瞬間、咄嗟にシシィは叫んでいた。
「ミネルヴァ殿、私は貴方とは行けない。彼に…彼にまだ聞きたいことがある!それが先ほどの答えだ」
苦しげなホセの顔に、だが僅かに驚きの表情が浮かぶ。対するミネルヴァは、何故か声を立てて笑った。が、すぐさま振り返ると、彼女は全軍撤退を告げ、唖然とする両者に向かって改めてこう言った。
「取りあえず今日の所は失礼する。…またいずれ、戦場でお会いするとしよう」
その言葉が終わるか終わらぬかのうちに、ホセの手から剣が滑り落ちた。休息にバランスを失い崩れ落ちるホセに、慌ててシシィは駆け寄る。その様子を寂しげな笑みで見届けると、ベアトリスはその場を後にした。

第十六章 『ミネルヴァの降臨』 完
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