『夜明けの詩 月夜の涙』
 

第十九章 『サヴォ王国』

フェナシエラの北西に位置するサヴォ王国は、大陸でも歴史ある大国に数えられる国の一つである。
建国より健在の体制を整えるようになるまで、そしてなってからも幾度となく王朝は交代したが、その王家が主張するところはいつの時代も等しく同じである。すなわち、「我が王家は元をたどれば神聖王国に連なる。よってその支配権は我が国にある」と言う物である。
サヴォは国境を接するフェナシエラを欲した。それは単純な領土欲ももちろんだが、フェナシエラの商用港が生み出す東方貿易の利益が最大の理由だった。
一年の大半を雪と氷で閉ざされてしまうルーソとは違い、サヴォに一年中使用できる港が無い、と言うわけではない。だが、サヴォが東方貿易に乗り出せない決定的な訳があった。
第一に、サヴォには大量の商船を常時受け入れるだけの規模を持つ港がない。サヴォに点在するのは小規模な漁港、そして対外的にはその場所を知られたくない軍用港であった。
では、作ってしまえば良いではないか、と簡単にことは運ばない。至高の王冠を頂いているイノサン5世は、先だって兄王を廃立して玉座に着いた。そのため、国内の有力者を未だ完全に従わせているとは言い難く、大規模な港の造成をする程までの力を有してはいなかった。
港が確保できたとしても、サヴォには海路という動かしがたいもう一つの問題があった。サヴォの沿岸から外海にでるにはどうしてもフェナシエラの領海を通らなければならない。自国の領海を通過する船をフェナシエラは細かく監視し、商用船には自国の利益を脅かさぬよう通行税を課していた。それでは結果的にサヴォに運び込むには莫大なコストがかかる。
陸路を介して東方へ行くにしても、やはり目的地チヌにたどり着くまでには無数の国を通り抜け、さらに砂漠を越えなければならない。どちらにしても、危険や要らぬ出費を避けるわけにはいかない。
かくして、幾世代にも渡ってフェナシエラとサヴォという国境を接した二大大国のいがみ合いは続いていたのである。
その宿敵とも言える関係のサヴォに、フェルナンドが迎えられてから、早くも三ヶ月が過ぎようとしていた。本を正せば王家に連なり、あまつさえ大将軍を父に持つ若者のこの行動の裏にある真意を、サヴォの高官達は測りかねていた。が、相手はまだ若く、ここで恩を売っておけば御しやすい。何より莫大な利潤を生み出すフェナシエラの実権が労せずして手に入る…。
したたかな打算の末、イノサン5世はこの若者の手を取ることを決断した。そして、実際、フェナシエラはその手中に転がり込もうとしていた。そう、表面上は。

名ばかりの『フェナシエラ王』と言う称号を頂いても、別段何が変わるというわけでもない。何よりフェルナンドは、配下を始めとする、本国から従ってきた者達に対し、自分のことを『陛下』と呼ぶことを禁じた。
その訳をイノサン5世に尋ねられたとき、彼は僅かに頭を下げながらこういった。
「ありがたくもイノサン5世陛下の支持は頂きましたが、私はまだ大司教より正式な戴冠を受けておりません。歴代国王の慣例を済ませていないこの身では、自ら王を名乗るのはおそれ多いかと存じまして」
この言葉を聞き、イノサン5世は決まり悪そうな笑みを浮かべるにとどまったという。
ベアトリスとの会見を終え、机の上に溜まった雑務の山がかなり小さくなった頃、遠慮がちなノックの音が室内に響いた。こんなおとなしい叩き方をする者は、彼の配下にはいない。彼は仕事の手を止め、勤めて穏やかに呼びかけた。
「お入り下さい」
しばらくしてから躊躇いがちに扉が開く。おずおずという形容詞そのままに入ってきたのは、見事な金髪のまだ少女と言って良い年齢の女性だった。
「貴女からここにいらっしゃるとは…一体何事です?カトリーヌ殿」
「あ…あの…ベアトリス様が戻られたと…伺ったので…」
戸口に立ちつくしたまま消え入りそうな声で話す少女に、フェルナンドは珍しく優しげな笑みを向ける。そんなところに立っていないでこちらにおかけになったら如何です、との彼の言葉に、少女はやや迷った後従った。執務机の斜め前にある長椅子に、少女がちょこんと腰を下ろしたのを確認してから、フェルナンドは穏やかに切り出した。
「先程下がって休むよう命じたところです。姫君がおいでになると解っていましたらもうしばらく引き留めたのですが…」
申し訳ございませんと頭を下げるフェルナンドに、カトリーヌは慌てて首を横に振った。
「いえ…わたくしの方こそ、もしかしたらお会いできるかと勝手に押し掛けたのですから…フェルナンド様が頭を下げられることは…何も…」
必死になっているカトリーヌに再び笑みを向けてから、フェルナンドはゆっくりと立ち上がり、背後の飾り棚から見事な細工の施された瓶を手に取る。そして僅かにカトリーヌに対し失礼、と会釈をしてから、瓶の中の赤い液体で机上のグラスを満たした。
「…あの…例の…ことなのですが…」
フェルナンドがそれに口を付け、再び机の上に戻すと同時に、カトリーヌは躊躇いがちに口を開いた。おそらくはこちらの方が本題だったのだろう。いたたまれなく思いながらも、彼はそれを表情に出すことなく言った。
「婚礼の件でしたら、辞退させていただきました。私はまだ正式に戴冠を受けてはおりませんし…」
驚いたように目を丸くするカトリーヌに、フェルナンドは悪戯っぽく片目をつぶって見せてから言葉を継ぐ。
「何より、想い人がいる女性に横恋慕するほど、私は野暮な男ではありませんよ」
その言葉に、カトリーヌは真っ赤になってうつむいた。膝の上できつく握りしめられた両手の甲に涙の滴が落ちる。様子の変化にフェルナンドは慌てて歩み寄り、優しく言った。
「始めてお会いしたとき、お約束したでしょう?必ず…」
「ごめんなさい…わたくし…フェルナンド様がお優しいので…甘えてばかりで…でも…わたくし、ユークリド様が…」
「泣いてばかりでは、ユークリド殿をお助けできませんよ」
先程までとは異なる口調に、カトリーヌは涙に濡れた顔を上げる。フェルナンドの顔に既に笑みはない。フェナシエラの海の色をした双眸には、直視しがたい光が宿っていた。
「貴女がお望みでしたら、私は喜んでお力になります、そうお約束、しませんでしたか?」
カトリーヌはこっくりと頷く。それを認めると、フェルナンドは再び柔らかい微笑を見せた。
「…そろそろお戻りになられた方がいいでしょう。後でベアトリスをやりますので、お待ちになっていて下さい」
静かに立ち上がると、カトリーヌは腰を折り、まるでお手本のように優雅なお辞儀をすると、しずしずと部屋を出ていった。
残されたフェルナンドは、言い難い表情を貼り使えたまま、机上のグラスを見つめていた。

 

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