『夜明けの詩 月夜の涙』
 

第二十章 『契約』

「起きていても良いのか?」
ノックをせずに扉を開け、遠慮なくずかずかと足を踏み入れるなり、美貌のヴァルキューレは呆れたとでも言うように、その隻眼から苦笑にも似た視線を投げかけた。その言葉の通り、『絶対安静』を命じられているはずの猛将は、日当たりの良い室内に置かれた寝台の上で半身を起こし、困ったような表情で彼女を迎え入れた。
「動き回らなければ構わない、との許しは頂きましたし…何より…」
一度言葉を切り、ホセは読んでいた本を閉じる。そしてその表紙に視線を落としながら、呟いた。
「何より、何も出来ずに天蓋を見つめて寝ていると、嫌なことばかり思い出してしまうので…」
些細な言葉が持つ重い意味に、両者の間に沈黙が流れる。だが、すぐに気を取り直したシシィは、大股に寝台に歩み寄ると、その主の許可も得ずに当然とでも言うように脇へと腰を下ろした。突然の行動に思わず瞬きするホセを全く気にする風でもなく彼女は告げた。
「さっき、ザルツワルトの自治権を正式に貰った。万一の時は国境を護る盾になるが、自分の身を護ることだから問題はない。ここでの役目は全て終わった。明日早々、帰る」
「帰る…?では、王室には戻られないんですか?」
一息に言い切ったシシィの横顔を見つめていたホセは、遠慮がちに口を挟む。だが、返ってきた物は予想に反して、今まで見たことのないすがすがしい笑顔だった。
「私には、あそこにたくさんの友人がいる。私を気にかけて、城下まで来てくれた者もいるし…、そんな彼らを、捨てるわけにはいかない。それに、今更ここに戻っても、馬鹿なことを考える奴らが出てくるのがオチだ」
自分の存在が女帝の立場を危うくするのなら、今まで通りの生き方を選ぶ。その方がずっと気が楽だ。言いながら笑うシシィの顔を、ホセは複雑な面もちで見つめた。
「…どうした?何か不服か?」
「いえ…そういうわけではなくて…どうしてわざわざ私に?」
首を傾げるホセにやれやれとでも言うように軽く溜息をついてから、シシィは足を組み直した。
「お前には…その、色々世話になった。一応ことの結末を報告するのは礼儀じゃないか」
少し呆れたようなシシィの言葉に頷きながらも、ホセの脳裏には、直前に語られた彼女が『帰る』理由が取り憑いて離れなかった。そしてふと、ある思いが、彼を捉えていた。
…自らフェナアプル候となったロドルフォ殿下の心中も、こんな物だったのだろうか…では、自ら王位につくことを拒むような行動をとるカルロス殿下の真意は、一体どこに…。
「何をぼんやりしている?」
物思いに耽るホセを、シシィの声がふと現実に引き戻す。いつしか真剣な眼差しでホセを見据えるシシィの口から、こんな言葉が漏れる。
「一つだけ、聞き忘れたことがあった。…お前はどうして騎士になった?」
一瞬の躊躇いの後、別に答えたくなければそれでも良いと言うシシィの視線から僅かに逃れるようにうつむきながら彼は低く言った。
「他に…生きる術がなかったからです。あの時私に示された道は、騎士として生きるか、慰み者として死ぬかのどちらかしかなかった。だから…」
思わずホセは言葉を切った。気が付くとシシィの顔は、これ以上ないくらい間近にある。驚いて身を退こうとしたその瞬間、彼の唇にシシィのそれが触れた。
「…一体…」
内心の動揺を隠しきれずに問うホセに、その張本人は少しも悪びれもせず、悪戯を仕掛けた子どものような表情で答えた。
「今のは契約だ」
「契…約?」
「たった今からヴァルキューレと楽園の騎士団はお前と共にある。万一助けが必要になったら私を呼べ。例え地の果てにいようとも、お前の元にたどり着いてみせる」
そう宣言するシシィの表情に、既に笑みはなかった。神に誓いを立てる神官のそれに似た真摯な視線を受け止めかねて、ホセは思わず口ごもった。
「けれど…けれど私は、貴女の嫌う騎士で、貴族で…」
「お前は同志だ。私たちと同じ痛みを分かつ同志だ」
驚きのあまり、しどろもどろになるホセの反論を、彼女はぴしゃりと封じた。それ以前に、こんなに腰の低い騎士や貴族を今まで見たことがない、と言いながら再びシシィは破顔した。つられて苦笑を浮かべるホセだったが、ふと思い立ったように口を開いた。
「では、早速で申し訳ないのですが、力を貸しては頂けないでしょうか…」

 

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